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一人でも多くの選手にチャンスを 舞台はアジア、「サッカーエージェント」という仕事

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
拠点とするタイのサッカーリーグを視察する=西村宏治撮影

「選手が冷静でいられないとき、自分が冷静に判断することで、新たな道が切り開けてくる」

タイを拠点に、約140人のプロサッカー選手をアジア圏で誕生させてきた。東アジアから中東まで19カ国・地域。これほど広範囲の国々で契約を実現させてきたのは、異例の存在だ。

アジアでのプレーを望む選手の事情は様々だ。Jリーグから声がかからなかった選手、アジアで活躍して日本に戻ってプレーしたいと望む選手、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で頂点に立つ夢を持つ選手……。共通するのは、「サッカーで生活をしていけるプロ選手になりたい」という思い。そんな「選手の可能性を一つでも広げる」ために、あらゆる選択肢を探し出す。

近年、アジア各国リーグは急成長している。国外から次々と選手が流れ込む一方、自国の選手を優先するリーグの方針で外国人枠は減らされ、求められるレベルは高まっている。

国によって、環境や求める選手像は全く違う。例えば、スピードがあり足元のテクニックがある地元選手が多いタイやカンボジアでは、フィジカルが強い体が大きい選手が求められ、ウズベキスタンやタジキスタンでは小柄でも速い選手が求められる。地元選手とのギャップがあるところに、需要が生まれるのだ。

真野の元に来る選手には「なぜアジアなのか」「なぜ欧州じゃないのか」と問いかけ、考えさせる。そして「こういう道もある」と提案する。「最終的に、『チャレンジして本当に良かった』と言ってもらえる関係性を構築するのが重要」と言う。

■カンボジア初のJリーガーも

拠点とするタイのサッカーリーグを視察する=西村宏治撮影

自身、フットサルのプロ選手を目指してタイに渡り、挫折した経験を持つ。高校までサッカーに打ち込んだ。大学からフットサルに転向し、魅力にとりつかれた。ただ、当時の日本では、「フットサルで食べていくこと」をイメージできなかった。

大学3年のとき、旅先のタイで交通事故に遭って入院。地元の人の優しさに触れ、タイで生活したいと思うようになった。

帰国後、タイでフットサルリーグが始まるとニュースで知った。「これだ」。現地の日本人選手を探し出し、頼み込んでチームの練習に参加させてもらった。2009年、プロ契約にこぎつけた。

だが、半年で契約を打ち切られた。他のクラブを探すと、「いいよ、契約する」と前向きな返事が来た。しかし、待てども正式な契約書が届かない。気がつくと選手登録できる期限は過ぎ、プレーする機会を失っていた。

後で知った。好意的な返事は、相手を傷つけまいとするタイ独特のいわば、社交辞令でしかなかった。「3、4年ぐらい後悔しかなかった」。後ろ髪をひかれる思いで、選手をあきらめ、タイで衣料品を売るアパレル会社を立ち上げた。

ただ、選手としての経験は無駄にならなかった。サッカー留学などの事業を展開する日本企業から、業務提携の誘いが舞い込んだ。代理人の仕事がスタートした。

選手はときに、代理人に自分の人生まで預けてくる。はじめは感情移入し、期待のすべてに応えようとした。だが、「自分は神様でも、クラブオーナーでもない」。ときには選手から厳しい言葉もかけられ、苦しんだ。次第に、こう考えるようになった。「選手は選手として、代理人は代理人として結果を出さなければならない。一番選手のためになるのは、僕がアジアマーケットで、選手が満足できる契約を一つでも多く取っていくことしかない」

ソサイチをプレーするためにスパイクを履く=西村宏治撮影

タイを皮切りに、ラオス、カンボジア……と次々に契約先を開拓していった。何より現地に直接行くことを大事にし、試合があれば顔を出し、クラブ関係者にあいさつして回った。市場に目をこらし、「これから伸びる」と感じたリーグを見つけたら、どのエージェントよりも早く現地に飛び込んで、信頼関係を築いていった。

そんな地道な取り組みを続けていた17年。カンボジア代表のチャン・ワタナカが同国初のJリーガー(J3)となる移籍を代理人としてまとめ上げたときだ。所属していたクラブのゼネラルマネジャー、ベ・マカラが真野をフェイスブックでタグづけすると、世界中のクラブ関係者や選手から友達申請が殺到。あっという間に上限の5000件に達した。マカラは言う。「マノは、今まで一緒に仕事をしてきたエージェントとは全く違う。お金のためではなく友情のために、高い責任感を持って、誠実に働く」

■もうひとりの「カズ」とともに

本間和生選手(左から2人目)とともに(本間選手提供)

「二人三脚」。真野は選手との関係を、いつもこう表現する。中でも、特別な選手がいる。

本間和生(41)。欧州に日本人選手がほとんどいなかった頃からハンガリーやセルビアでプレー。真野と出会いアジアに拠点を移してから、ラオスで5回の得点王、現在所属するタイ3部リーグでは最年長ゴールも記録した。ただ、長年戦い続ける中で心は疲弊し、ここ数年は毎年「1年間戦うエネルギーは自分にあるのか」と自問自答する。そんなとき、真野がいつも声をかけてくる。「絶対に引退はさせません。いけるところまで一緒に戦っていきましょう」

街を歩けば「カズ、カズ」と慕われ、どの若い選手よりストイックにトレーニングに取り組む本間の姿を真野は見てきたからだ。「一試合、一試合、国はどこでも点を取り続けたい」。本間は今も闘志を燃やす。

今、最も注目するのは中東だ。これまで現地でプレーする日本人はいたが、外国人の代理人が仲介してきた「未開の地」。「チャンスしかない」と言う。数年前、開拓に乗り出したが、関係者の連絡先も分からない。クラブの住所を調べて現地に飛び直接交渉したり、SNSを調べて監督やオーナーをリストアップし、メッセージを送り続けたりした。オマーンで契約を実らせ、イラン、クウェートでも「これから」というとき、コロナ禍が襲った。

この2年、コロナ禍で各国リーグはたびたび中断し、選手の渡航もままならない。だが、真野は言う。「たとえ閉まる国があっても、必ずどこかは開いていて、これから活性化するリーグはある。(アジア)全体でカバーすれば、まだ出来ることはある」

選手には、必ず自分の夢も伝えている。アジア・サッカー連盟に加盟する47の国と地域すべてで自分が担当する選手を誕生させること。そして、その選手がACLでトロフィーを掲げること。

1月。年末にタイのスタジアムで涙を流していた選手の新たな移籍先が決まった。

■プロフィル

  • 1985 仙台市で生まれる
  • 1993 小2からサッカーを始め、プロ選手になる夢を抱く
  • 2004 青山学院大に入学。関東リーグのフットサルチームに加入
  • 2007 タイのプロフットサルチームの練習に参加
  • 2008 大学卒業後、タイに渡る
  • 2009 タイのフットサルチームとプロ契約。半年間プレーした後、契約打ち切りに
  • 2011 タイ・バンコクで会社を設立
  • 2013 サッカーのエージェント業務を本格的に開始
  • 2017 カンボジア代表選手の藤枝MYFC(J3)への期限付き移籍で代理人を務め、各国のサッカー関係者に一気に名前が知られる
  • 2019 アラブ首長国連邦(UAE)でサッカー事業の現地法人を立ち上げる
運営するフットサルコミュニティーの様子(本人提供)

フットサルでコミュニティーづくり…14年からバンコクに住む日本人を対象に、フットサルやソサイチ(7人制サッカー)を通じて人や企業をつなぐ活動をしている。子どもから大人まで、性別も関係なし。海外駐在員の家族などの交流の場になっているほか、勉強会や懇親会を通してビジネスが生まれることも。月1回から始めたが、今では月に約30回ほど開催。「年間約1万人に来てもらえるコミュニティーづくりを目指しています」

元選手の経験よりも…サッカーやフットサルをしていた経験をいかし、今でも選手と一緒にボールを蹴ってコミュニケーションをはかる。ただ、代理人としてより高いレベルで勝負するときは、元選手かは関係ないという。「どのように戦略を立ててクラブから信頼を得ていくか、というビジネス的なセンスのほうが問われる」と話す。(文中敬称略)