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季節のめぐりを味わう人びと 日本人にみる、人類の本能

マイケル・ブースの世界を食べる 更新日: 公開日:

妻と私は毎朝、子どもたちを学校に送り出すと、ラブラドール犬のルナを連れて散歩に出かける。

私たちは海に近い郊外に住んでいる。散歩はいつも、森を抜け、野原を横切り、芝や土、砂などの自然を踏みしめて歩く5~6キロの行程になる。ルナのことを思えば、いかなる天気でも休むわけにはいかない。雨を嫌うルナは、一滴でも水が落ちてきたら、文字通り家から引きずり出されるはめになるのだが、そうでもして運動を日課にしなければ、みんなそろってミシュランのキャラクターかというくらいふくらみかねないもので。

毎日、同じ道を歩いて1年もすると、ゆるやかな自然のめぐりに気づく。いつもは月日が過ぎるのはなんて早いものかと思っている私だが、日々、自然のただ中に1時間ばかり浸る生活をしていると、時間が経つ感覚を見直さざるをえない。四季のうつろいを嗅ぎ、味わい、感じる─。窓から見える天気の変化で、ただなんとなく気づくものではないのだ。

食べ物にも、もっと季節を感じられたなら。つい最近、英国が輸入するブロッコリーやレタス、ズッキーニなどの野菜が、スペインの大雪で供給ストップとなり、大騒動となった。人びとが必死で買い求めるあまり、やむなく数量制限を設けたスーパーもあったほどだ。

ならば、冬の英国でも安定して育つ芽キャベツなりケールなりを食べればいいものを。私には不思議でならない。どうして食べごろでもない野菜を、わざわざはるか彼方から取り寄せてまで求めるのか? いったい、どこの誰が、好き好んでケニアからプラスチックのような豆を、イスラエルからラズベリーを、おいしくもないのに値段はやたらと跳ね上がる12月や1月に調達しているのか? これだからスーパーの青果売り場はいついってもまったく同じ、私には少し気が滅入る光景だ。

季節はめぐる

日本は少し事情が違う。旬ではない野菜や果物を求めることに後ろめたさがあるのは他の国と同じだろう。農作物に「完璧さ」を期待するこだわりも尋常ではない(本当は、メロンはたとえへたがT字形をしていなくてもちゃんとおいしい)。日本ではその上、四季や、それがもたらす折々の果物や魚介、植物、野菜に対し、欧米よりよほどうまく自らを適応させているようにみえる。

自然界の季節のめぐりと切り離せない、何がいつ熟するかという知識は、人類が狩猟採集民族だった頃に備わったものだ。その本能的な知識を私たちのほとんどは失ってしまった。日本人は違う。彼らにはわかるのだ。たとえば山菜が顔を出す頃、カツオの脂が最ものる頃、栗が秋の便りを運んでくる頃、四国の柚子が収穫の時を迎える頃が。なんとも素晴らしい特性である。全員ではないにしても、日本人の大多数がそうなのではないか? 他の先進国からみれば、それはかなり特別なことだ。

そんなことを、ルナの散歩中によく考える。木々にわずかな春の兆しを探す、この時期は特に。花見に象徴される、四季に対する日本人の感覚には嫉妬さえ覚える。

実のところ、「桜を愛でる」という発想を少し前に家族と試してみたことがある。わが家のほど近く、美しく咲き乱れる木の下でのピクニックだ。ご近所さん方はわれわれ家族がどうかしてしまったと思っただろう……。でも、ルナのお気には召したようだ。

(訳 菴原みなと)