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「私は目覚めた」 エルサルバドルの農村女性を変えたもの

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主婦グレンダ・ジャミレット(27)@東部ラセイバ村

以前は家中がとてもほこりっぽくて、2人の子どもがせきをしたり、アメーバ赤痢になったりして、月1回は隣町の保健所に連れて行っていました。いまの生活の課題を考えて、自分たちで改善していく「生活改善」のサークル活動に参加するようになって、家の中を整理整頓したり、ベッドのシーツを頻繁に替えたりするようになりました。子どもたちには手洗いやシャワーを徹底させ、夫とよく話し合って無駄遣いもやめました。いまでは保健所に行くことはほとんどなくなり、医療の支出はだいぶ減って、家計もかなり改善しました。ゴミの量や環境への負荷を減らすことを心がけて、買い物のときに袋を持ち帰らないようにもしています。


私が変わったのは、サークル活動で学んだことを家庭で実践しようと決めてからです。夫と2人で自分たちでできることを探して、実際にやってみたことで自信がついて、もっと次の取り組みをやろう、と考えるようになりました。目が覚めて、考え方が変わりました。お金がないから貧しいのではなくて、支援がないと何もできないとか、自分を貧しいと思うことが、貧困を生んでいたんです。お金ではなくて、やる気の問題です。以前は自分たちが持っている資源に目を向けていませんでしたが、考え方を変えると、庭で育てている鶏や観葉植物を資源として収入を得ることができているのです。


実は4年くらい前に米国への移民を考えたことがあります。当時はお金がないと何もできないと思っていたので、1人で家政婦として出稼ぎに行こうと考えていました。でも生活改善の取り組みを知って、私の生活はここにあると気づいたんです。行かなくて本当によかった。娘には将来、大きな夢を持ちなさいといつも言っています。夫は心配ごとがあると爪をかむくせがあって、以前はいつも爪がなくなっていたんですが、もう、かまなくなりました。いま幸せですが、夢を実現してもっと幸せになりたいと思っています。

主婦レイナ・エルナンデスさん(38)@東部ラセイバ村

私の夢は、自分の家をもっと改善して、健康でより生きがいを感じられる家族にすることです。トタン屋根の天井は暑いので、別の素材に変えたいですし、台所は来週、改修工事をします。壁と床、庭の植物にも手を入れて、きれいにしたい。家族の関係もよくなっています。


以前はこういうことを考えることは全くありませんでした。外の人が助けに来てくれないと自分たちは何もできない、と考えていたからです。サークルを通じて、目が覚めました。家族が一緒になって、やる気をもって取り組めば、小さなことから少しずつ改善できるんです。


サークルでは、自己啓発と、将来の夢を考える時間がすごく大きなきっかけになりました。以前ならお金がないとできないと思っていたことが、家族や隣人が一緒になって協力することで改善できるんです。この壁を改善したときは、家族とご近所の皆さんが手伝ってくれました。自分たちも、ご近所さんが改善するときに手伝います。これまでの経験を通じて、より大きなことを考えることもできるようになりました。

主婦マリア・エステル(35)@中部サンハシント村

以前は部屋が暗くて、電気をつけないと何も見えない状態でした、雨期は雨漏りで子供部屋では寝られませんでした。ベッド上に服や靴がちらかっていて、夫はハンモックで寝ていました。夫婦関係はなくなっていて、もう離婚寸前でした(笑)。


お金をかけない住居改善を家族で話し合って、貯金計画を決めて、小石や砂を持ち帰るところから始めました。窓を増やして光を採り入れることで電気代が節約でき、整理整頓でスペースができて、また夫婦で一緒に寝るようになりました。健康状態もよくなって、高血圧と片頭痛の薬を飲まなくても大丈夫になりました。今考えると、ベッドにスペースがなくてちゃんと夜眠れず、体にどんどん疲労がたまっていたのだと思います。


炭酸飲料の代わりにたくさん水を飲むようにして、他の人がファストフードを食べるときも、ニンジンを買って料理します。おいしいものをつくるのに、それほどお金はかかりません。消費を抑えて、健康的な食生活にすることで病気にならなくなり、その分、他のことにお金が使えます。


心からやる気になれば何でもできる。そう自分を信じられるようになりました。米国に移住したきょうだい9人から何度も移住を誘われましたが、私の国はここだし、自分でできることを考えていけば十分生きていけます。私は米国には行きません。

社会開発投資基金(FISDL)地域開発課長 アルヘンティーナ・トレッホ(52)

貧困削減策として、「子供を学校に行かせる」といった条件付きの現金給付事業を始めて10年がたって、有効性を検証していました。良かれと思ってやっていたわけですが、村の人たちに依存心が生まれて支援を待つだけになり、面倒は政府が見るという関係に陥って、より貧困がひどくなりました。消費文化も蔓延していました。
身の回りの資源に目を向けて、ないものではなく、あるものを探して、できることをやっていく。そう考え方を変える必要があったんです。生活改善を通じて、自分たちの能力を伸ばして、自分たちはもっとできるんだ、と思えるようになる。まさにこれが、エルサルに必要な考え方なんです。私はこの先もずっとこの仕事に取り組みたい。もう、これ以外のことはやりたくありません。


沖縄での研修は、ある種、マジックでした。厳しい地上戦からどう生活を立て直し、貧困から抜け出したのか。元普及員からお話を伺い、内戦を経験したエルサルが抱える問題と非常に似ていることに気づきました。エルサルでは物質的な復興が最優先されてきたことで、内戦で壊れてしまった社会的連帯の再構築が置き去りになっていました。
エルサルの家族は非常に閉鎖的なうえ、政治や宗教の違いから隣人と話すこともなくなっていました。サークル活動は、生活をテーマにみんなが集まる、公共の話し合いの場を提供することにもなりました。男らしさが尊ばれてきた社会でもありますが、メンバーの2割は男性で、より積極的に家事に取り組む変化が生まれています。


活動は決して簡単ではありませんでした。人々は外からモノが持ち込まれることに慣れていますが、生活改善では普及員が定期的にサークルに一緒に出るだけです。メンバーの4割はやめてしまいました。しかし、続けている家族は自尊心を持って幸せな生活を送ることができ、地域に根付いています。そんな家族は米国に移住しようとは考えません。

国際協力機構(JICA)エルサルバドル事務所長 藤城一雄(47

2000年以降、途上国からインフラなどのハード面の整備だけではなく、ソフト面の支援を求められるようになって、それに応える日本の経験として出会ったのが生活改善でした。開発援助の結果、農村では支援への依存心が非常に高くなっていました。事業が終わると次の事業が来るのを待ってしまう。私たち自身も考え方を変えなければいけませんでした。
外からの支援がなくても、農家が自分たちで考えて、身の回りにある資源を活用して、身の丈に合った開発を進める。そんな日本の生活改善が中米の行政官の心に響き、私たちも現場で多くの学びを得ています。


生活改善を通じて、コミュニティーに話し合いの場が生まれて、内戦で壊れてしまったエルサルの社会的連帯を再構築できることが確認できました。同じ状況にある南米コロンビアでも、このエルサルの経験はかなり響いて、取り組みが始まっています。社会的連帯が強まると、外部からギャングが入ってきたときも、コミュニティーとして対応するようになる。親子の会話が増えれば、子どもがギャングに入るのを防ぐことにつながる。お金がないから移民するという考え方ではなく、郷土愛を持ち、身の丈に合った生活をすることに幸福を見いだす家族も増えています。
私自身、20年以上にわたって開発の仕事をしていますが、貧しい農家の皆さんが自分自身で生活について考えるようになる姿に触れることは、これまでなかなかありませんでした。


今後は成果を「見える化」することで、政権が交代しても、政策が継続するような仕組みをつくる段階に入っています。また、在米のエルサル人移民社会には、長年にわたる家族への送金がただ消費に使われてしまい、結局、生活がよくなっていないという不満があります。移民が自身の出身地で生活改善の活動に取り組むために、資金を出していただけるケースが出始めています。連携を深めて、細く長く続く活動にしていきたいと考えています。

生活改善普及事業と国際協力

戦後、農村の民主化を目指した連合国軍総司令部(GHQ)の指示で1948年、当時の農林省(現農林水産省)が米国の取り組みをモデルに農業改良助長法に基づく制度をつくり、翌年から活動が始まった。農水省によると、ピークの68年には「生改さん」と呼ばれる普及員が2210人に達し、全国で農家の主婦らにサークル活動を指導した。2001年に農業改良普及員に統合されて呼称はなくなったが、農産加工などの業務に受け継がれているという。


戦後日本の経験を学びたいという途上国の要望を受けて、JICAが05年から中南米14カ国から330人以上を受け入れて研修した。エルサルでは、政府の社会開発投資基金が15年に試験事業を始め、21市で約3千世帯が参加した。