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文書公開は日本の広報外交だ アジア歴史資料センター長が語る公文書の力

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アジア歴史資料センターの波多野澄雄センター長=高橋友佳理撮影

アジア歴史資料センターを訪ねて



センターは明治のはじめから1945年までの軍と外交に関する資料、アジアとの関係を作り上げてきた公文書を公開してきた。それらは国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所の3館から電子データで提供されたもので、目標としていた3000万画像の公開を2016年度中に達成した。センターのホームページで、誰でも、いつでも、どこからでも、無料で見ることができる。

「日本とアジアの関係史を正確に」



基本理念は、アジア諸国との相互理解を促進すること。日本が持っている限りの資料、歴史公文書を余すところなく公開し、それを利用してもらうことで、日本とアジアとの関係の歴史を正確に理解してもらうことが目的だ。資料に解釈を加えたり加工したりはせず、あるがままのものを公開する。海外の研究者、教育者に日本にかんする理解を深めてもらうという日本のパブリック・ディプロマシー(広報外交)の一環である。デジタル化した資料を使えば、わざわざ日本の文書館に来なくても、海外にいながらにして研究者は論文を書くことができる。

そして、日本が批判されてきた裏には、「資料を隠しているのではないか」と思われてきたことがある。従って、とにかく日本が、都合の悪い資料でもそうでない資料でもあまねく公開して、決して隠しているわけではないとアピールする狙いがあったと思う。

村山富市首相(当時)が就任直後の94年夏、東南アジア、韓国を訪ねたあとに発表した「平和友好交流計画」に端を発する。村山氏は経済大国となった日本がアジア諸国との友好関係の増進のため何をすべきかを模索し、「平和友好交流計画」を打ち出した。10年間で60件以上、1000億円相当の新規事業を行った。その中の重要な一つがこのセンターだった。設立まで6年間かかり、2001年に開設。計画で打ち出された事業のうち、今でも続いているのはこのセンターだけだ。

日本は、革命や動乱によって国が転覆するといった経験がなかったため、歴史資料を後世に残し、国民と共有するという意識が育たなかった。戦争の時代には、文書を残すより廃棄するという意識が強く、戦災や空襲がそれに輪をかけた。戦後は米英が歴史資料の公開を積極的に進めるのに対し、日本は後れをとり、戦後の日本外交史を書く場合も、米英の資料に頼らざるを得ず、日本の立場がなかなか反映されない、という時期が続いた。しかし、最近は外交資料の公開が進み、だいぶ改善されてきた。

8月、戦後の資料の公開が始まった



45年以降の資料も公開して欲しい、という要望が国内外からあがっていた。15年に開かれた「21世紀構想懇談会」(西室泰三座長)からも提言された。戦後のアジアとの関係、戦後処理を正確に伝えることが必要だ、ということになり、45年から72年の日中国交正常化までの資料を公開することになった。主に外交史料館が保管する5000冊の資料について、毎年500冊のペースで10年かけて公開していくことになった。第一弾として今年分は8月10日に公開された。憲法改正をめぐるGHQとの交渉記録、憲法改正草案、重光外務大臣とマッカーサーらGHQ要人との会談記録などが含まれている。

昨年度は約700万件のアクセスがあった。8割が国内からだが、中国や台湾、韓国、米国などからも閲覧されている。01年の設立から10年ごろまで毎年少しずつアクセスが増え、一時期横ばいになったが、最近また増えてきている。今年7月、北京で開かれた近代中国海外所在貴重文献収集委員会の設立記念会議に呼ばれ出席したが、中国側の出席者から、「(アジ歴は)世界の模範。中国でもアジ歴に似たものを作りたい」と評価の言葉をもらった。


アジア歴史資料センターHP


はたの・すみお

筑波大名誉教授。専門は日本政治外交史。外交史料館非常勤職員、防衛研究所員、ハーバード大学ライシャワー記念日本研究所客員研究員などをへて筑波大教授。2014年度から現職。