グラウンド・ゼロの教訓 アフリカ・エボラ出血熱
2013年12月 最初の犠牲者が出た
崖を下り、背の高さの茂みを分け入ると、根元が大きく裂けた白い大木があった。「チンパンジーも登れない木」。ギニア南部メリアンドゥ村でそう呼ばれる村一番の大木の内部は、高さ数メートルもの洞になっていた。
ここを遊び場にしていた男児エミール・オゥアモゥノ(当時1歳半)が13年12月、高熱を出して嘔吐し、2日後に息を引き取った。祖父キシ・デンバドゥノは「それから1カ月でみんな死んでしまった」と話した。同居していた姉と妊娠中の母、祖母が急死。助産師や葬儀の参列者など、かかわった人たちも嘔吐や下痢を繰り返して死んでいった。
謎の病は14年3月、西アフリカ初のエボラ出血熱と判明。致死率が最も高いザイール型だった。「ペイシェント・ゼロ」(患者第1号)となったエミールがどうやって感染したかはわかっていない。だが、洞にはエボラウイルスの自然宿主とされるコウモリが巣くっていた。「グラウンド・ゼロ」(爆心地)。この地はそう呼ばれるようになった。
エボラ出血熱はエボラウイルスに感染して起きる。潜伏期間は2~21日。症状は発熱や嘔吐、出血など。致死率は25~90%。患者の血液や吐いた物に傷のある手で触れたりすると感染する。空気感染はしない。今年もコンゴ民主共和国でアウトブレイクが起き、疑い例を含めて4人死亡した。
世界保健機関(WHO)がアウトブレイクを宣言し、NGO「国境なき医師団」(MSF)らが支援に入ったが、地元住民は不審のまなざしを向けた。連れていかれると遺体すら戻ってこない。遺体を洗って土葬する風習も禁じられた。「エボラなんてうそだ」「臓器売買が目的だ」。そんなデマが広がった。地元保健所職員ムサ・トゥレ(47)は「村に入ると、石を投げられた」と話す。
それでも当初は楽観論が勝っていた。
患者数は4月にいったん下降線をたどり、ギニア保健当局は「ほぼ管理下にある」とした。WHOも踏み込まなかった。この時、リーマン・ショック後の予算・人員削減で余力のないなか、中東呼吸器症候群(MERS)の対応に追われていた。09年の新型インフルエンザH1N1流行では「騒ぎすぎ」との批判もあった。エボラは過去同様、「密林の病気」で終わる──と信じた。
実際は、視界から消えただけだった。村人は患者を隠し、遺体は夜陰に紛れて土葬した。3カ国にまたがって暮らす地元のキシ族は国境を自由に行き交う。ギニアの患者が頼ったシエラレオネの有名な呪術師が感染して死亡し、さらにその葬儀を機に感染者が国境を越えて広がった。
2014年7月 指揮官の死
密林から首都への交通の要衝にあたるシエラレオネ東部ケネマ。その国立病院から7月、国内唯一のウイルス性出血熱の専門家で医師のシェーク・カーン(当時39)が姿を消した。エボラ対策の陣頭指揮をとるなかで自身も感染。別の病院に搬送されたが、約1週間後に死亡した。
指揮官の死。「恐怖で同僚の多くがしばらく病棟に戻れなかった」。自分も感染した看護師ファティマ・カマラ(35)はそう語る。病院には患者が押し寄せていた。廊下にマットを並べても患者を収容しきれず、臨時雇いの看護師が防護服不足や危険手当の未払いに抗議してストライキに入るなど、混乱をきわめた。10年以上続いた内戦で医療システムは傷つき、医師は10万人あたり2人と日本の100分の1ほどしかいない。
ケネマ県保健局長モハメド・バンディ(47)は「政府もWHOも国際社会も様子見するだけだった」と語る。国立病院だけで医療従事者56人が命を落とした。「5月に支援があれば国境近くで、6月でもケネマで抑え込めた。犠牲ははるかに、はるかに、はるかに少なくすんだ」
一方で指揮官の死は、政府や社会の意識を変えた。ホテル従業員タンバ・サーキティ(24)は「エボラは本当なんだとみんな気づいた」。政府は7月31日、全土に非常事態を宣言。患者隠しは最高2年の懲役とし、学校や映画館を閉鎖、患者が出た家屋に兵士や警官を配して21日間隔離するなど強権を発動した。
WHOは8月8日、ようやく「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。だが、すでにエボラは100万の人口を抱える3カ国の首都に入り込み、全土に拡散していた。MSFインターナショナル会長のジョアンヌ・リュー(51)は9月、国連会合で訴えた。「世界はエボラとの戦いに敗れつつある」
2014年8月 100万都市に感染拡大
リベリアの首都モンロビアのウェストポイント地区。大西洋に突き出た半島部に7万5000人以上が暮らす巨大スラムの全域が8月20日、突然、完全封鎖された。
域内の学校がエボラ患者用施設になったことに怒った住民が施設を襲撃し、患者を追い出してマットレスなどを持ち出した。感染拡大を恐れた政府は軍を投入し、半島全体の隔離に踏み切った。当初は水も食料も供給されず、物価は2倍に高騰。憤った住民と軍がにらみ合いとなり、青年1人が射殺された。約半月後に封鎖は解かれたが、不信と不安は増幅した。
ウェストポイントに水浴び場兼トイレは10カ所余りしかなく、一つの部屋に数人が肩を寄せ合う。衛生状態の悪い100万都市で感染は一気に拡大した。院内感染を恐れて医療関係者は病院に寄りつかず、五つある大型病院のうち四つが閉鎖。患者らの搬送も追いつかず、路上に身元不明の遺体が放置された。「医療システムが崩壊した」。当時、副保健相だったトルバート・ニスワは振り返る。
WHOだけでは手に負えなくなっていたが、人道危機対応の仕切り役、国連人道問題調整事務所(OCHA)には感染症の経験がなく、腰を上げなかった。隣国コートジボワールなどが国境を封鎖し、ブリティッシュ・エアウェイズやエミレーツ航空などは運行を中止。世界からの「隔離」すら始まった。住民と政府、国際機関と国際社会。人間側が互いに背を向ける間に、エボラは脆弱な医療システムを壊して巨大化した。
動いたのは、3カ国と関係の深い英米仏だった。米国の大統領オバマは9月16日、「安全保障上の潜在的な脅威」として米軍の派遣を表明。18日には国連安全保障理事会の緊急会合が開かれ、その翌日、感染症対策では初めてとなるエボラ緊急対応ミッションが設置された。米国は約3800人、旧宗主国の英国は約750人を送ったほか、中国も約800人を派遣した。遅まきながら、国際社会の「総力戦」態勢ができた。米国やスペインで治療に当たった看護師が二次感染するなど、もはや対岸の火事ではすまなくなっていた。
2016年2月 避けられた悲劇
感染国の政府と住民のなかにエボラに立ち向かう機運が生まれ、そこに国際社会の支援が届くようになった。14年末には感染者数はピークを越えて急減し、WHOは16年3月29日に緊急事態の終息を宣言した。死者1万1310人、感染者は疑い例を含めて2万8616人。終息宣言の前月、一連の対応を検証した国連ハイレベル・パネルは「避けられた悲劇だった」と結論づけた。
教訓を踏まえ、有事の備えは変わりつつある。一時は不要論すら出たWHOは、国連機関などと連携して緊急時対応にあたる新組織を設けて出直しを急ぐ。世界銀行も緊急資金支援の仕組みを作った。
日本の対応も課題が残った。資金は米欧に次ぐ額を出したものの、派遣した人員は約20人。シエラレオネで治療にあたった豊島病院感染症内科医長の足立拓也(47)は「国内はエボラの日本上陸を防ぐ議論ばかりだった。現地で助けを求める人に支援を届ける機運が全く盛り上がらなかった」と憤る。
大陸、大洋を越えて ジカウイルス感染症
リオデジャネイロ五輪を前にした一昨年、世界が身構えたブラジルのジカウイルス感染症(ジカ熱)は、海の向こうからウイルスがやってきて、蚊を媒介して広がった。感染拡大はまだ終わっていない。
ジカ熱は、感染者を刺した蚊が別の人を刺すことで感染する。妊婦が感染すると胎児が小頭症になる恐れがある。小頭症児は、成長の遅れ、難聴や視覚障害、摂食障害などが報告されている。
5月中旬に訪ねた南米大陸最東端の街、ブラジル北東部ジョアンペソアのスラム街では、昼間から路上で少年たちが大麻をふかしていた。そんな一角で2015年11月に生まれた小頭症児のエロイージは、1歳になったいまも、頭囲が生後1カ月の乳児の大きさほどしかない。体が硬直しがちで座ることができず、目にも障害がある。
彼女の誕生に前後して、この街や周辺で小頭症の子どもが次々と産声を上げた。地元の産婦人科病院だけでもこの年9月からの約5カ月間で200人を超えた。「原因もわからないまま、出産後の母親たちを支えるので精いっぱいだった」と産婦人科医師、ジュリアーナ・アラウジョ(40)は振り返る。
15年は記録的なエルニーニョ現象の影響でネッタイシマカがブラジルで大発生した。これが媒介してジカ熱の感染が広がった。エロイージの父ジュリアーノ(33)も発疹や発熱などの症状が出た。妻マリア(30)もこの時に感染したとみられる。しかし、マリアを含めジカ熱の存在すら知らなかった人びとは気にとめなかった。ジカ熱の流行と、妊娠中の感染が小頭症と関係していることが明らかになるのは後になってからだ。
もともとブラジルとは無縁だったジカウイルスはどこからやってきたのか。
成長し過ぎた森
「ジカの森」。東アフリカ・ウガンダのビクトリア湖畔にある森林がその「故郷」とされている。国際空港から乾いた風のなかを車で20分。森に足を踏み入れると、一転して鳥のさえずりと湿った空気に包まれた。ここはウガンダウイルス研究所が所有し、動物のウイルス感染に関する実験林でもあった。
1947年4月、高熱を出した実験用アカゲザルの血液から世界で初めてジカウイルスが検出された。しかしその後のヒト感染は、80年代までにアフリカのウガンダやナイジェリア、アジアのインドネシアなどで数えるほどの例が記録されているだけだ。これらの国々では遺伝子検査がほとんど行われていなかったため、ジカ熱と気づかれなかった例も多かった可能性はある。
明確で急速な感染の広がりを見せ始めたのはウイルス確認から60年後の2007年。西太平洋・ヤップ島で起きたアウトブレイクで、住民約7000人のうち約500人に発疹や発熱の症状が出た。人びとがデング熱だと思っていた病は、支援要請を受けた米疾病対策センター(CDC)の調査の結果、ジカ熱とわかった。
13年にはヤップ島から東に約8000キロ離れた仏領ポリネシア、翌14年にはチリのイースター島にも到達。15年にブラジル、そして、米国南部でも感染例が報告されている。
ジカウイルスにはアフリカ系統とアジア系統がある。ブラジルで小頭症など神経障害をひき起こしているのはアジア系統だ。最近の研究で、アジア系統は感染を繰り返すうちにウイルスが変異し、ヒトに適応して感染力が強まった可能性が指摘されている。南米大陸までの長い「旅」の途中で変異したのか。
ブラジルでジカ熱の感染が初めて確認されたのは15年5月だったが、最近のゲノム解析の結果、14年2月までにはウイルスはブラジルに到達していたことがわかった。13年6月にサッカーのコンフェデレーションズ杯がブラジルで開かれ、仏領ポリネシアのタヒチも出場した。タヒチの試合は、後に小頭症が数多く報告された北東部のレシフェでも行われた。レシフェにある大学病院医師のマリア・アンジェラ・ホシャ(69)は「このときに上陸した可能性もある」と話す。
小頭症児が次々生まれていた16年2月、世界保健機関(WHO)事務局長のマーガレット・チャンは緊急事態を宣言した。この時点ではまだジカ熱と小頭症の因果関係は明確ではなかったが、「強い疑いがある」として踏み切った。決断の背景についてWHO事務局長補のブルース・アイルワード(55)は「エボラ危機の反省から、各国との情報共有などすべてが迅速に進められた」と話す。
「ジカ」とはウガンダの言葉で「成長し過ぎた」(overgrown)という意味だ。深く大きな森だったという。しかし、国際空港と首都カンパラの間に位置する森はいま、住宅や商店に囲まれ、近くで高速道路の建設が進む。森の面積はかつての1割程度まで減った。「私たちはウイルスと隣り合わせで生きている。森の破壊が進めば、別のウイルスによるアウトブレイクがどこかで起きるかもしれない」とウガンダウイルス研究所のジュリウス・ルトワマ(57)は話した。
日本上陸寸前だった 空飛ぶマーズ
2015年5月、中東の感染症が突然、韓国でアウトブレイクした。
重い肺炎などを引き起こすMERS(中東呼吸器症候群)は、12年にサウジアラビアで初めて報告された新興感染症。WHOによるとこれまで感染者は約2千人に上り、死者は約700人。致死率は約35%に上る。新型のコロナウイルスが原因でヒトコブラクダから人に感染し、広がったと考えられている。
韓国での感染は、サウジやバーレーンへの出張から帰国した男性から広がり、約2カ月で186人が感染、36人が死亡した。韓国では入院中に家族が一緒に宿泊したり、「ドクターショッピング」といって治療途中に別の医師にもかかったりする習慣がある。入院した男性から、家族や別の入院患者に広がった。防衛医大教授(感染症疫学)の加来浩器は「病院の公表や感染の恐れがある人らの隔離が遅れ、二次、三次の感染を招いた」と話す。
感染した男性が利用した旅客機はその後、消毒されないまま日本の中部国際空港に着陸していた。男性が利用したのは仁川発香港行きの便だったが、感染の発覚が遅れ、機体はそのまま日本行きに使われていたのだった。
未知の予備軍、永久凍土から目覚める
未知なるウイルスは思わぬところからも確認されている。
フランスの研究チームは2015年、3万年前のシベリア永久凍土の地層から巨大ウイルス「モリウイルス」が確認されたとする研究結果を米科学誌に発表した。14年にも同じ永久凍土から別の巨大ウイルス「ピソウイルス」が見つかった。研究チームは「異なるウイルスが簡単に息を吹き返した事実は、地球温暖化による懸念材料だ」と指摘した。
巨大ウイルスは、1990年代に英国の病院で検出されたのが最初の例で、03年に報告された。約0.75マイクロメートルといわゆる普通の顕微鏡でも確認できるほどの大きさで、当初は細菌と考えられていた。だが研究チームは、この検体は他の細胞に寄生しないと増殖できないウイルスだと結論づけた。
その後もチリや豪州で見つかった。病原性はないと考えられている。京都大学教授(生命情報学)の緒方博之は「研究がこれまで進んでいなかった分野であり、温暖化で新たなウイルスが出てくれば自然環境に影響を及ぼす可能性がある」と話す。
インフルエンザも、新しいタイプのウイルスが人に感染している。
中国では13年から鳥インフルエンザウイルス(H7N9)のヒトへの感染が広がり、WHOによるとこれまで約1530人が感染して約590人が死亡した。インフルエンザウイルスは変異しやすく、同じ細胞に別の型のウイルスが同時に侵入すると、まったく違う型のウイルスが生まれる「遺伝子再集合」が起きる。北海道大学教授(ウイルス学)の迫田義博は「中国の生鳥市場などが鳥インフルエンザの発生源になっている」と指摘する。今のところ鳥に濃厚に接触して感染する場合がほとんどだが、感染の反復でよりヒトに感染しやすいウイルスが生まれる恐れがある。シベリアにある渡り鳥の営巣地もウイルスが混じり合って思いもよらぬ変異を呼ぶ可能性のあるスポットだ。
新興・再興感染症
WHOなどによると「新興感染症」は、新たに見つかった病原体が原因で起きる感染症だ。国際獣疫事務局によると、新興感染症の少なくとも75%が動物由来とされている。1970年代にアフリカを中心に感染が報告されたリフトバレー熱などで注目された。エボラウイルスの発見は76年。過去に抑えられていた病原体が再び広がるものを「再興感染症」と呼ぶ。
新興・再興感染症への危機感が高まったきっかけは、80年代に見つかったHIV(ヒト免疫不全ウイルス)だ。先進国でも感染が拡大し、国際社会が対策に乗り出した。
感染症は、ウイルスや細菌などの病原体が体内に侵入して増殖し、それに対する免疫反応で体が変調を来す病。動物間で感染していたウイルスが変異するなどしてヒトに感染するケースもある。2003年に中国やベトナムで広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)などがそうだ。普通の風邪の原因ともなるコロナウイルスの新型が引き起こした。