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世界の書店から

もう、「理想」は追わない ソウルから

[第225回]戸田郁子

Photo:Nishida Hiroki

ソウルの書店にも春がやって来た。ピンクや黄など、あざやかな色合いの表紙がずらりと並ぶのを見ると、なんだかウキウキしてくる。総合ベストテンの中には、若い書き手による、ささやかな幸せを渇望するエッセイが並んだ。生きにくさを感じる人々が、本の中に脱出口を求めているのだろうか。切実さが胸にしみる春だ。


 エッセイ『私は私で生きることにした』は4月初め現在、61刷を重ねる。イラストレーターでもある著者が挿絵も描いた。著者はおそらく、30代前半の女性だろう。いつの間にか大人になってしまった自分に戸惑っている。「幼いころの理想からかけ離れてしまったと気づいたとき、大人の思春期は始まるのかもしれない」


なぜこの社会は「理想的な自分」を強要するのだろう。なんでも数字で物事を測ろうとする国民性。女性なら体脂肪率17%、体重48キロ、謙虚で明るい性格、良い大学を出て大企業に勤めるのが理想像だ。5キロ減量、TOEIC(英語テスト)スコア900点など、だれもが高すぎる目標値を設定して邁進している。


しかし、教科書に掲げられた「機会の均等」などどこにも存在せず、「努力は必ず報われる」という格言も間違っていた。理想に追い付かなくて劣等感を抱えた人々は、社会から認められない空虚感を埋め、薄っぺらな優越感を味わうために、他人を侮蔑する。レストランで働く若者を指して、「ちゃんと勉強しないと、おまえもああなるよ」と我が子に言い聞かせる母親がいる。


皆が社会の不条理を諦めたり、我慢を重ねた結果、手に入れたのは、OECD加盟国の中で自殺率最高、出生率最低という二つの指標だった。


大人として生きてゆくことの難しさ。「確信が必要なあなたには悪いが、10年間タロットや四柱推命、風水などあらゆる占いをやりつくした結論から言う。生きるとは、模糊(もこ)なるものに耐えていくこと」


著者が望む幸せとは、仕事をし、愛する人とおしゃべりし、おいしいものを食べ、好きな音楽や本を共に楽しみ、天気が良ければ日向ぼっこするような、穏やかな日常を過ごすことだ。元気な筆致で、読者に勇気を届ける。でも、そんなささいな幸せすら、もがき苦しまなくては手に入らない現実が悲しくなる。



(次ページへ続く)

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