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『82年生まれのキム・ジヨン』、女に我慢強いる社会の空気を代弁

[第208回]戸田郁子 作家、翻訳家



Photo: Nishida Hiroki

小説が総合ベストテンを席巻するのは久しぶりだ。沸き立つ思いで、上位の韓国小説3冊を手に取った。


『82年生まれのキム・ジヨン』の主人公は、35歳の主婦。サラリーマンの夫、1歳半の娘と3人暮らしだ。ある日ジヨンは、婚家の家族の前で、「うちの娘はお盆のごちそう作りが終わると、いつも倒れるんですよ」と、実家の母の口調で姑に話しかけた。夫には、夫のことを好きだった大学の先輩女性の口調で話しかける。凍りつく人々。ジヨンは育児ノイローゼなのか。


ジヨンの生い立ちが、淡々と描写される。祖母は5歳下の弟だけを、「男の子だから」とかわいがる。二つしかないお菓子を、一つは弟、一つはジヨンと姉が分け合うのが当然だった。両親からもさしたる関心は払われず、志望大学の人文学部に進んだ。


大きな葛藤は感じずに育ったが、社会に出ようとしたとたん、就職の壁が立ちはだかった。何十通も履歴書を書いた末に、ようやく手にした働く喜び。しかし仕事で成果をあげても、先に昇進するのは男だ。


気の進まない酒宴で、上司のセクハラ発言に黙って耐える。憧れの女性上司は頑張りすぎで、育児休暇も取らず、後輩の権利を奪っている。


妊娠したジヨンは、夫や親族の「育児に専念するのが当然」という思い込みにあらがえず、退職する。「仕事の能力が低かったわけでも、怠慢だったわけでもないのに、すべてはこれで終わりなのだ」。失望がジヨンの心を覆う。生まれたのは女の子。劣等感で憂鬱になるジヨン。男女の就業率や賃金格差、育児休暇など、様々な統計がさりげなく盛り込まれている。


ジヨンとは、この年生まれの女性に最も多い名前だという。産児制限で女児の堕胎が増え、男女比の不均衡がピークだった時代に育った。無償保育が始まっても、願う仕事には就けないジェンダー不平等。平凡な日常を維持するために、女たちはいつも我慢を強いられる。そして次第に心が壊れていく。


「ジヨンは私のこと」と、広く共感を得た。「国会議員が必ず読むべき本」と言われる。映画化も決まった。


喪失感を抱きながら、だれもが危うい日常の中をなんとか生きのびている。そんな感覚が、今の韓国社会には濃厚に漂っているようだ。


小説家には、社会の空気を代弁する役割がある。韓国の文学賞を次々と受賞した、気鋭の作家2人は、そう自覚しているらしい。2人の新作短編集の素材は、まるで連動しているかのようだ。


(次ページへ続く)

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