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人類は「青いハイウェー」でアフリカを脱出した? 生息域を地球全域に広げた謎に新説

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
エチオピアで研究者らが見つけた7万4千年前の石片の先端
エチオピアで研究者らが見つけた7万4千年前の石片の先端。エチオピアの考古学遺跡で、これまでに判明しているなかでは最古の矢じりや、大規模な火山の噴火でもたらされた残骸が明らかになった=Blue Nile Survey Project via The New York Times/©The New York Times

2002年のこと、古人類学者のチームがエチオピア北西部で調査していたところ、石の破片と化石化した動物の骨を見つけた。古代人がかつて暮らしていた場所だったことを示す証拠だ。

何年にもわたる発掘調査の結果、研究者らは7万4千年前に狩猟採集民が実際にそこに住んでいたことを突きとめた。

科学誌「Nature(ネイチャー)」に2024年3月20日に掲載された研究論文は、この古代人は驚くほど順応性が高かったとしている。彼らは、大型の獲物を捕るために矢を作った。巨大な火山の噴火で生活環境が一変した時は、その環境に適応し生き残った。

こうした柔軟さは、人類が初期に何度も進出に失敗したにもかかわらず、この時代の人類はなぜうまくアフリカから抜け出して拡散し、ユーラシアに定住できたかを説明するかもしれない。

「これは、この時代の人びとがいかに洗練されていたかを示唆している」とジョン・カッペルマンは言う。今回の研究を主導した米テキサス大学の古人類学者だ。

「シンファ・メテマ1」として知られるこの遺跡で、研究者らは数千点の骨を発掘した。ガゼル(訳注=小型の偶蹄〈ぐうてい〉目ウシ科ガゼル属に分類される哺乳類の総称)やイボイノシシの骨のほかキリンの骨まであり、なかには切り傷だらけのものもあった。これは、人類がこうした種類の動物を狩っていたことを示している。

研究チームは、ダチョウの卵殻片も215個、見つけた。この遺跡にいた人びとが、卵を食べていたか、水をためる水筒として殻を使っていた可能性がある。研究者らは、卵の殻片が微量の崩壊したウランを含んでいたため、年代を7万4千年前と正確に特定できた。

ほぼこの時期に、インドネシアのトバ火山が大量の灰と有毒ガスを放出し、世界中に拡散、数カ月にわたって太陽光を遮断した。

カッペルマンは、シンファ・メテマ1遺跡における噴火の痕跡を調べた。彼の研究チームは、岩を砕いて酸に溶かすことで、火山でのみ形成される小さなガラス片を発見した。研究者らは、この大災害の衝撃を生き抜いた人びとを研究するまたとない機会を得たことに気づいたのだ。

彼らは、岩のかけら1万6千点を分析し、それらはやりの先端ではなく、矢じりだと結論付けた。この結論が今後の調査でも維持されれば、弓矢の歴史は数千年早まるだろう。

弓矢の発明は、狩猟者が至近距離まで獲物に近づく必要がなくなったことを意味する。子どもでさえ矢を使えば狩りができる。カッペルマンは自分たちが遺跡で見つけたカエルの骨も子どもたちが矢で殺したものではないかと推測した。

トバ火山が噴火すると、シンファ・メテマ1遺跡を取り巻く状況は一気に厳しくなった。短かった雨期はさらに短くなり、川は浅くなった。

多くの研究者らは、そうした残酷な変化が、より過ごしやすい環境で、昔ながらのやり方で生き延びられそうな場所へと人びとを避難させたと考えてきた。

しかし、シンファ・メテマ1遺跡では、そうではなかった。化石の記録によると、そこでは獲物が死に絶えたために哺乳類を狩ることをあきらめ、代わりに、浅くなった水域で魚釣りをすることで新しい環境に順応したのだ。

カッペルマンら研究チームは、この地域に住む現代のエチオピア人たちのやり方を調べ、古代人がどのように漁をしていたかを知る手がかりを集めた。たとえば、乾期になると、魚は水たまりに取り残されることがある。「それはことわざ通り、『たるの中の魚をとるように』たやすかっただろう」とカッペルマンは指摘する。

シンファ・メテマ1遺跡では、トバ火山噴火の環境への影響は数年しか続かなかったように見える。降雨が戻り、動物も戻ってきて、人びとは同地で再び狩猟を始めた。魚の骨が見つかることは珍しくなった。

カッペルマンは、シンファ・メテマ1遺跡1地点を切り取るだけでも、人類がどのようにしてアフリカから出て拡散したのかというナゾに迫る役に立つと考えている。

エチオピアの考古学遺跡「シンファ・メテマ1」で調査をする研究者たち
エチオピアの考古学遺跡「シンファ・メテマ1」で調査をする研究者たち=Lawrence C. Todd via The New York Times/©The New York Times

科学者たちは長い間、人類がサハラやアラビア半島の砂漠をどのように通過して他の大陸に到達したかについて疑問を抱いてきた。

これらの地域が植物で覆われていた湿潤期にだけ、そうした移動が起こったのではないかと彼らは推測してきた。人類は、言わばこの「緑のハイウェー」を旅しながら従来の生存戦術を駆使することで、他の大陸に行き着くことができたのではないかと。

しかし、カッペルマンたちは、人類が魚釣りなど食料を確保する新しい手段を素早くひねり出したから、乾燥した気候でも生き延びられたのでは、とする説を提示した。

乾期には、人類は魚釣りをしながら、その季節特有の状態の川に沿って移動したのかもしれない。緑のハイウェーを移動する代わりに、人類は「青いハイウェー」を旅したとカッペルマンらは主張している。

オーストラリア人類進化研究センター(ARCHE)の所長マイケル・ペトラグリアは、トバ火山の噴火当時の考古学的証拠と環境上の証拠を組み合わせた今回の研究は素晴らしいと指摘する。「世界のどこを見ても、信じられないほどまれな研究だ」と言っている。

ペトラグリアは、今回の研究現場に関する解釈には説得力があると考えているのだが、一方でなお緑のハイウェー説を支持している。

7万1千年前から5万4千年前まで、サハラやアラビア半島の一帯には超乾燥状態の砂漠が広がっていた。そうペトラグリアは主張し、「青いハイウェーの回廊はほとんどなかった」と言うのだ。

カッペルマンは、ナイル川が一定の水をサハラ砂漠から地中海へと運んでいたと指摘し、砂漠が非常に過酷な環境にあったとする主張に疑問を呈した。そのうえで、彼は一つの遺跡だけで7万4千年前の人類全体について語ることはできないことを認めながらも、他の研究者たちが似たような遺跡を見つけた場合に比較検討する対象になるとしている。

「私たちがここに提示しているのは、検証可能な仮説である」。そう彼は言っている。(抄訳、敬称略)

(Carl Zimmer)©2024 The New York Times

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