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元ナチ党員の首相に平手打ち 市井のナチハンターが過去に沈黙しない新世代の象徴に

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ナチハンターとして活動したベアテさん(右)とセルジュさん
ナチハンターとして活動したベアテさん(右)とセルジュさん=2024年1月22日、パリ、中川竜児撮影

パリで知ったドイツの「過去」

アドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報(ちょうほう)機関によって極秘裏に拘束された1960年5月11日、パリで男女の出会いがあった。

「ずいぶん後になって、自分たちの活動を本にしている時に気づきました。不思議なこともあるものだと」。ナチハンターとして有名なクラルスフェルト夫妻はパリの自宅で顔を見合わせて笑った。

妻ベアテさん(85)はベルリンの典型的な家庭で育った。「幼稚園では『ハイル、ヒトラー』とやりました。でも戦後、学校でナチスの犯罪については教えられなかった。親も話さなかった」。一方、ユダヤ人の夫セルジュさん(88)は父をアウシュビッツで失っていた。

話をするベアテさん(左)とセルジュさん
話をするベアテさん(左)とセルジュさん=2024年1月22日、パリ、中川竜児撮影

高校卒業後、パリで住み込みの家事手伝いをしながらフランス語を学んでいたベアテさんは、セルジュさんらと出会い、自国の「過去」を初めて知った。

2人が結婚し、長男が生まれた後の1966年、あぜんとする出来事が起こった。

元ナチ党員が西ドイツ首相に

西ドイツ首相に、元ナチ党員だったキージンガーが就任した。外務省放送局幹部として、ナチスのプロパガンダ普及に一役買った人物だ。「抗議するのが義務だと思いました」とベアテさんは振り返る。セルジュさんは東ドイツに行き、キージンガー首相に関する資料を当局から見せてもらった。東ドイツにとっては、西を攻撃する材料が増えるのは好都合だった。「我々は同じ意見は持っていなかったが、同じ敵は持っていた」とセルジュさん。

新聞にキージンガー首相の批判記事を書くなどジャーナリストとしても活動していたベアテさんは、やがて思い切った行動に出た。

1968年11月、キージンガー首相が所属していたキリスト教民主同盟(CDU)の西ベルリンでの党大会。カメラマンの助けを借りて会場入りし、ノートを取るふりをして壇上の首相に近づき、「ナチ!」と叫びながら、平手打ちした。

キージンガー首相が平手打ちされたことを報じる当時の新聞
キージンガー首相が平手打ちされたことを報じる当時の新聞=2024年1月22日、パリ、中川竜児撮影

すぐに拘束されたが、一国の首相が平手打ちを食らった衝撃は世界に報じられた。以降、キージンガー首相の演説先では若者のブーイングが響くように。翌1969年、CDUは選挙で大敗し、キージンガー首相は失脚。戦時中、反ナチスの活動家でもあった社会民主党のブラントが首相に就いた。ベアテさんが望んでいた結果だった。ブラントは1970年、ワルシャワのゲットーの記念碑前でひざまずくという象徴的な行動をとった。

「最高の出来事だった」

平手打ちについてベアテさんは「最高の出来事だった。その後に起こったことは全て、ドイツの政治や社会を変えていったのだから」と振り返る。

2人はその後、フランスでのユダヤ人連行などに携わったナチスの犯罪者の追及に着手。時には誘拐を試みるなど実力行使も辞さない過激な手法には批判もあった。だが、西ドイツで悠々と暮らしている元親衛隊員らの存在をマスコミの前で明らかにし、巧みに世論喚起につなげた。元隊員らはその後、有罪判決を受けた。

キージンガー首相が平手打ちされたことを報じる当時の新聞の横に立つベアテ・クラルスフェルトさん
キージンガー首相が平手打ちされたことを報じる当時の新聞の横に立つベアテ・クラルスフェルトさん=2024年1月22日、パリ、中川竜児撮影

2人は1960年代から断続的に続いていた殺人罪の時効撤廃の運動にも影響を与えた。ベアテさんは「ドイツでもフランスでも、若者はいつも協力してくれた」と話す。「過去」に対して沈黙を選びがちだった親とは異なる、新世代のシンボルになった。

弁護士でもあるセルジュさんはフランスから強制移送されたユダヤ人の名簿を作成し、対独協力者の責任追及にも力を注いだ。ベアテさんは2012年、ドイツ左派党の大統領候補になった。旧東ドイツ出身の人権活動家ガウク氏に大差で敗れたが、落胆はしなかった。「これほどリベラルな候補が争ったのは初めてのことだったから」。それもまた、ドイツの変化を示すものだった。