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ソ連製ミグ戦闘機で70年前に北朝鮮から亡命した元軍人、新天地のアメリカで死去

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
1953年に亡命してきた北朝鮮の空軍パイロット、ノ・クムソク。後にケネス・ロウと名乗るようになった=U.S. Air Force via The New York Times/©The New York Times
1953年に亡命してきた北朝鮮の空軍パイロット、ノ・クムソク。後にケネス・ロウと名乗るようになった=U.S. Air Force via The New York Times/©The New York Times

朝鮮戦争の休戦から2カ月ほどがたっていた。北朝鮮空軍中尉の盧今錫(ノ・クムソク)は、16機による首都平壌周辺のパトロール任務から離脱した。操縦していたソ連製ジェット戦闘機ミグ(MiG)の速度を思い切り上げ、気づかれぬまま韓国に向かい、米空軍が同盟国軍とともに駐留する軍用飛行場に着陸した。

21歳ながら、100回以上の空中戦を朝鮮戦争(1950年6月25日開戦、1953年7月27日休戦)で経験したパイロットだった。銀色の後退翼の機体には赤い星が描かれ、今にも火を噴きそうな機銃がのぞいていた。操縦席から降り立つと、驚いた表情の空軍兵たちに取り囲まれた。共産主義から逃れる夢をついにかなえた。同時に、米空軍に贈り物を携えてきた。初めての入手となった完全無傷のミグ機だった。

1年後、ケネス・ロウ(Kenneth Rowe)を名乗るようになった。米国を新天地とし、大学で学びながら、新たな人生を歩み始めた。

そのロウが2022年12月26日、フロリダ州デイトナビーチの自宅で亡くなった。90歳だった。娘のボニー・ロウが彼の死を確認した。

多くの人は、大見出しが躍ったあの「知的情報の宝庫」の引き渡し事件を思い出したことだろう。機種はMiG-15bis。朝鮮戦争で米ジェット戦闘機F-86 Sabre(訳注=愛称「セーバー」〈サーベルの意〉)と数々の空中戦を演じたミグの改良機だ。

ロウ(英語のフルネーム:Kenneth Hill Rowe)は、1932年1月10日、日本統治下にあった朝鮮半島北部にある人口1万の町で生まれた。父親は日本の財閥企業の地元管理職で、母親(訳注=後にロウとともに韓国経由で米に移住)は主婦だった。

1949年に北朝鮮の海軍士官学校に入った。学費なしで大学教育を終えようとしたこの選択は、いずれ船員として外国の港に立ち寄った際に亡命する機会がめぐってくるかもしれないと考えてのことだった。その後、空軍に移され、旧満州でジェット戦闘機の操縦訓練をソ連の軍人から受けた。正式にパイロットになったのは、19歳のときだった。

北朝鮮の支配政党・朝鮮労働党に入り、朝鮮戦争従軍中は、本人によると「熱狂的な党員を演じた」。しかし、反共的な父親とカトリック教徒だった母親の育て方の影響を色濃く受け、民主主義のもとでの暮らしに強く憧れるようになった。

第2次大戦後、朝鮮半島は分断され、北朝鮮となった領土ではソ連に支えられた金日成が共産主義による統治を敷いた。そんな中で、ロウはいかにしたら米国に行けるかをずっと考えていた。

朝鮮戦争休戦から8週間。パトロール飛行の任務を離脱すると、高度を2万3千フィート(7千メートル強)に上げた。向きを南にとり、軍事境界線を越えて金浦空港に降りた。13分の飛行だった。運も味方した。金浦空港のすぐ北側に配備されていた防空レーダーは、定期点検で稼働していなかった。空中警戒中の米軍機も対空砲部隊も、ロウの機体をとらえなかった。

それは、1953年9月21日の朝だった。一見、完璧に逃亡を成功させたようだった。しかし、大惨事になりかねない瞬間があった。着陸すると、滑走路の反対側に着陸したばかりのF-86が猛スピードで向かってきた。両機のパイロットは翼をこすり合わんばかりにしてすれ違い、かろうじて衝突を免れた。

「酸素マスクを外した。生まれて初めて、自由の空気を吸った」。J・ロジャー・オスターホルムとの共著で1996年に出した回顧録「A MiG-15 to Freedom(自由を目指した一機のMiG-15)」に、ロウはこう記している。

駐機したのは米軍機に囲まれた一角だった。操縦席の計器盤にあった額入りの金日成の写真を引き裂き、操縦席から飛び降りるとそれを地面に投げ捨てた。

基地中が「地獄の蓋でも開いたかのような大騒ぎになった」とロウは振り返っている。だれもが自分を一目見ようと集まってきた。米第5空軍の司令官サミュエル・E・アンダーソン中将も基地に駆けつけた。

「どうすればよいのか、だれも分からないようだった」とロウは述べている。「私は『motorcar(自動車)、motorcar、motorcar』と叫んだ。それが、高校で習った英語の中で思い出せるほとんど唯一の単語だった。だれかが自分を司令部に運ぶ車を呼んでくれると思った」

やがて2人のパイロットが自分をジープに乗せ、所持していた半自動式拳銃を渡すよう求めた。喜んで応じた。それから尋問のために、一棟のビルに連れていかれた。

大ニュースとなった。「赤兵がソウル近郊にMIGで着陸し同盟軍に投降」。ニューヨーク・タイムズ紙は、1面にこんな見出しを立てた。

米空軍はソ連側との対立が深まることを予想し、MiGの長所と短所を探り出すことにした。そのために、最も熟練したテストパイロットの中から2人を選抜して送り込んだ。うち1人は、1947年に音速を初めて破ったことで知られるチャック・イェーガー少佐だった。

早速、このMiG-15を(訳注=沖縄に運び)極限状態に追い込んで試した。その結果、2人はF-86の方が勝っていると判定した。

ロウには思わぬ「ごほうび」があった。朝鮮戦争の終盤に米空軍は北朝鮮にビラをばらまいていた。ミグで最初に逃げてきた北朝鮮のパイロットには、10万ドルの報奨金を授けるとあった。これについてロウは「知らなかった」と語り、ただ自由な暮らしをしたかっただけだと強調した。それでも、結局は受け取ることにした。

渡米したのは1954年5月だった。セレブのような扱いを受けた。当時、副大統領だったリチャード・ニクソンに紹介された。NBC放送の朝の情報・ニュース番組Todayで著名アンカーのデイブ・ギャロウェイのインタビューを受け、政府系放送局ボイス・オブ・アメリカにも出演した。

デラウェア大学(デラウェア州)で工学の学位を取り、1962年に米国の市民権を得た。いくつもの防衛産業の大手企業や航空宇宙会社で技師として働き、後にはデイトナビーチにあるエンブリー・リドル航空大学(フロリダ州)の工学教授になった。

遺族には、先の娘ボニーのほかに妻のクララ(キム)・ロウ、息子のレイモンド、それに孫が1人いる。

ロウの渡米と前後して、MiG-15bisも米国に運ばれてきた。米空軍がさらに性能を精査するためだった。

あれから70年。その機体は、オハイオ州デイトンの近くにある国立米空軍博物館で今も健在だ。赤い星のマークは塗り直され、隣に展示されているF-86 Sabreとともに朝鮮戦争の当時を思い起こさせてくれる。双方がよく空中戦を繰り広げた空域(訳注=北朝鮮北部の中国国境付近)は、「ミグ回廊」と呼ばれていた。(抄訳)

(Richard Goldstein)©2023 The New York Times

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