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国家の暴力はどこまでが正義か?黄色いベスト運動を追った異色ドキュメンタリーが問う

World Now 更新日: 公開日:
© Le Bureau - Jour2Fête – 2020

ドキュメンタリー『暴力をめぐる対話』予告編

――監督は、「黄色いベスト」運動での警官による暴力行為を、市民がSNSを通じて報告・記録するデータベースを立ち上げました。集まった様々な映像を映画にしようと思ったのはなぜですか。

作品中にはたくさんの映像が出てきますが、いくつかの映像は、私にとりついて離れないものでした。特に、黄色いベスト運動に参加していて片目を失った男性の母親が病院にいるシーンや、片目を失った男性の叫び声が、私の中で長く響き続けていました。

当初、フランスでは警察の暴力に関する議論は一切ありませんでした。なぜなら政治家が否定し、メディアが沈黙を続けていたからです。

しかし、私が立ち上げたデータベース上でデータが集積するに従って、ある時点から爆発的に議論が増えました。私はそこに文化的な、あるいは歴史的な論拠を持たせることが必要だと考えました。

SNSの強みは世界中に瞬時に届く速さですが、同時に過ぎ去ってしまうという弱みがあります。過ぎ去ってしまう前に、長い時間軸の中に固定することが必要で、それが映画にするということでした。映画にすることによってSNS上の映像が、映画のアーカイブ(記録)になります。

インタビューに応じるダヴィッド・デュフレーヌ監督

――警察による暴力行為の映像をつなぐだけでなく、いろいろな立場の人を対話させる形式を取ったのはなぜですか。

まず大切だったのは、フランスの人々に現実を見せることでした。民主主義社会でありながら、警察の暴力は目に見えない状態でした。映像を通じて、人々は警察の暴力を発見しました。香港やアメリカのジョージ・フロイド事件(黒人男性が白人警官の暴行で死亡した事件)もそうだったように。

こうした映像を前にして人々は驚いて目を見張りました。しかし、そこで驚いているだけではなく、驚きや衝撃を乗り越えることが必要です。そうでなければ、映像は「見せ物」にとどまってしまいます。

そのために何が必要かといえば、対話であり議論だと思います。私は議論を始めるきっかけとしての映画を作ろうと思いました。映画を見ることで人々は、私自身も含め、考察できるからです。

対話という形式を通じて私がやろうとしたことは、「思考を撮影する」ということです。人が深く考えて、自分の奥底にあるものを見つけようとして考える、信念や感情について考えるところをカメラに収めたいと思いました。

そのために、対話を撮影するカメラを1台だけにするという選択をしました。カメラマンが話をする人たちの横にいて、その表情や動きを追えるようにです。そのことが議論をとても豊かにしてくれました。それは観客にも伝わると思います。

© Le Bureau - Jour2Fête – 2020

映画を撮るにあたって大切だったのは、ほとんど知らない人同士が対話を行うということでした。

ドキュメンタリー映画でよくあるのは、監督が登場人物にインタビューをする形式ですが、それだと、どこか人工的な要素が出てきます。そうしたものを避けて、できるだけ自然な、本物の議論や討論を撮りたかったんです。

カメラを最長で4時間回し続けたこともありました。回し続けることで、自然な瞬間をとらえることができました。 

――映画は冒頭、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉から始まり、社会学者ら、様々な職業の24人が登場します。

なぜ社会学者に出演してもらい、意見を言ってもらったのか。それは、映画を作る者として私の意見があって、それに他の視点を加えてバランスを取るため、そして、もしも私が間違っている時には考え直し、理解するためでした。ですから、この映画には様々な職業の人が出演しています。歴史学者、社会学者、司法関係、警察関係、ソーシャルアシスタント、デモ参加者たちです。

――対話を撮影中に、監督にもっとも響いた言葉や指摘は誰のどんなものでしたか。

心に残った言葉はたくさんありますが、強いて一つ選ぶとするなら、中盤に登場するソーシャルワーカー、メラニーさんの言葉です。

彼女はフランス北部アミアンという小さな町の出身なんですが、くしくもこの町はマクロン大統領の出身地でもあります。ですから彼女の言葉はより重みを持つと思います。

彼女はデモ参加者の暴力という話からスタートして、最後は「国家による暴力」というところまで話を進めています。国家による暴力というのは単なる暴力ではなく、社会的、経済的、文化的な暴力だと語ります。

座り込みの抗議活動を行う黄色いベスト運動参加者=2018年12月28日、パリ南西のバンドーム、朝日新聞社

メラニーさんの発言は、まさに私が考えていたこととぴったり同じでした。

素晴らしいと思ったのは、彼女が非常に政治的な発言をしたことです。映画の最後まで名前や肩書を出していないので、観客は彼女を画面で見たときに、彼女は社会学者なのか、弁護士なのか考えたと思いますが、実際は北部アミアンに住んでいるソーシャルワーカーで、どちらかというと、つつましい暮らしをしている人だったわけです。

私にとって、それがとても大事なことで、彼女の発言は驚きそのものでした。そして大事なのは、ワンシーンをワンカットで撮影しているために、彼女が映像を見て、考えて、その考えが形になって口から出てくるところを目の当たりにすることができるところです。

――たしかに、メラニーさんを含めて登場人物は、エンドクレジットでしか名前や肩書が明かされませんね。その狙いは何だったのですか。

映画だったからこそ可能だったといえます。

映画で一番難しいのは観客を映画館まで足を運ばせることで、いったん映画館に入ってしまえば、観客はテレビのようにチャンネルを次々と変えることはありませんし、椅子をあちこち移動することもありません。

日本でもそうだと思いますが、テレビ番組は他のチャンネルに変えられることを恐れるあまり、過剰に音楽を付けたり、テロップで画面を埋め尽くしたりしますが、それとは正反対のことをしました。

© Le Bureau - Jour2Fête – 2020

観客が自分の先入観を忘れるようにしたんです。

観客は、先入観を持たずに、その人の言いたいことに耳を傾けます。いったいこの人は誰なのか、もしかしたらこんな職業ではないか、といったいろいろな推理をしながら。出演者の中にはフランスでは有名な人もいますが、ほとんどの人は無名です。

出てきた人の意見を聞いて、なるほどと思ったり、同意できないと思ったり。最後にその人が警察官だった、弁護士だったということが分かった時に、その人の言説を以前と同じように評価するかどうかということで、サスペンス的な要素、知的な遊びの要素があると思います。

―日本はフランスに比べてデモが少なく、デモ隊が暴徒化した場合に、「力」による治安維持はやむを得ないと考える人が多いと想像します。この作品中では、暴力の程度や、警察官の職業的モラルは議論の対象になりませんでした。なぜでしょうか。

映画の中心テーマになっているのは、「暴力を正当化できるのか」ということです。暴力的なデモ参加者がいたときに、どのように対応すべきか、何が暴力的な行動の原因になっているのかということです。

というのも、デモに対応するやり方は国によっても違います。全体主義的な独裁国家と民主主義国家でも違いますが、同じ民主主義国家の中でも、たとえばドイツとフランスでは警察の対応がまったく違います。

ドイツでは、緊張緩和をしようとして、民衆と対話をしたり情報を与えたりしますが、フランスでは肉体的な接触、あるいは暴力に発展してしまっています。警察の暴力のせいで、フランスでは死者や、体の一部を失うような大けがをする人が出ています。

これは警察の行動規範の問題であり、使われている武器の問題や警察官の問題でもありますが、問題は国がどこまで防衛手段をとることをできるのかです。社会に不公平が存在するにもかかわらず、です。

インタビューに応じるダヴィッド・デュフレーヌ監督

商店のガラスを割ったり、ゴミ箱に火を付けたりする人たちにどう対応するかというだけでは十分ではありません。そこで議論が停滞してしまうからです。

フランスなどの欧州、またアメリカでも、治安問題は政治的討論の中心にあります。

フランスでは長い間、たとえデモの中で暴力的な行為が行われても、人を傷つけるよりは器物損壊を黙認するという方針が採られていました。たとえばファストフードの店舗を壊してしまうということがあったとしても、人を傷つけるよりはよいという考え方だったのが、社会がより平和になっていくにつれて「暴力は絶対に許さない」という空気が醸成されました。政府の方針が強硬になるにつれて、デモ参加者が大けがをする状況が生まれてきました。

――監督の立場としては、デモに参加する抗議者と中立のジャーナリストのどちらだったのですか。

私はこの映画を撮るにあたっての立場はジャーナリストでも、デモ参加者の立場でもなく、一人の映画監督、映画作家としての立場をとっています。

そもそも、ドキュメンタリー映画で、監督の視点が一切反映されていない作品はないと思っています。これほど重大で深刻なテーマを扱うにあたって一切の立場を取らないというのは、逆に奇妙なことです。

ドキュメンタリーとは、様々な視点の「場所」だと思っています。私がドキュメンタリー作品で評価するのは一つの視点から始まってはいるけれども、映画の最後で未来に向かって展望があるものです。

この映画にも社会的、政治的な側面があり、観客の人たちに一つの立場、一つの見方を取ることを強いているわけですが、その上で私は映画監督として、出演する(様々な立場の)人たちが、その人自身の思っていることと逆のことを言ったりしないように、知的正直さや誠実さを大切にしました。

© Le Bureau - Jour2Fête – 2020

――市民がスマートフォンなどで自ら撮影した動画をただちに公開できるようになりました。この変化をどう評価しますか。市民が、国家の暴力に対する抑止力を手にしたといえるでしょうか。

スマホの登場によって、市民と国家の間のバランスが造り替えられて、新たなバランスになったと言えます。

カナダの研究者の人は、このことを指して「今まで監視されていた人が監視者を監視する」という逆転した状態だと言っています。国家と市民の間の関係を決定的に大きく変わったということは間違いありません。

ただ、複雑なんですが、カメラとスマホがあることでできることは、国家の暴力を意識することであり、暴力を止める力までにはならないんです。

たとえばアメリカの例を見ると、警察官は撮影されていても暴力を止めることはありません。ただ、そのおかげで討論やデモ、「ブラック・ライブズ・マター」のような運動につながることがあります。

© Le Bureau - Jour2Fête – 2020

アメリカでは撮影する自由は完全に保障されていますが、フランスでは、政府が警察官に関して有害な映像を撮影して拡散することを禁止する動きが出ています。ですから、これは力と力の対立です。一方では市民の意識による力があり、一方には警察の力があります。

そして映像が中心的な位置を占めるようになっています。以前は映像がなくても討論できたが、今は映像がなければそれは疑わしいものである、という風に考えられます。しかしながら、スマホなどの技術によって自由に向かって大きく前進していることは否めないと思います。

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