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第二次世界大戦の始まりと終わり 日本とロシアの意識はこんなにも違う

迷宮ロシアをさまよう 更新日: 公開日:
モスクワ・クレムリンの傍らで灯り続ける「永遠の炎」。「1941~1945年に祖国のために散った者たちへ」とある。(撮影:服部倫卓)

ご都合主義の歴史観

日本人にとって、終戦記念日が巡ってくる毎年この時期は、太平洋戦争のことを改めて考える機会となっています。他方、今年は第二次大戦が勃発してから80年目の節目ということで、世界的にもそれを回顧する様々な動きがあるようです。

それにしても、第二次大戦についてのロシアの言い分を聞いていると、「何というご都合主義的な歴史観か」と、呆れてしまいます。彼らにとって、第二次大戦とは、1941622日に始まる独ソ戦にほぼ尽きると言っていいと思います。彼らが「大祖国戦争」と呼んでいるこの戦争で、ソ連の赤軍がナチス・ドイツを打倒し、世界を魔の手から救った。その物語が、ほぼすべてです。

時計の針を巻き戻せば、193991日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦の火蓋が切って落とされた直後、ソ連も独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづきポーランド東部を占領しました。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国についても、占領を強行。さらに、フィンランドに対しても戦争を仕掛けています。

このように、ソ連は最初から第二次大戦に深く関与し、ナチス・ドイツとの合意の下に版図を拡大したのです。にもかかわらず、ロシアは今日に至るまでそれらが国際ルールに則った通常の外交・軍事行動であったかのような立場をとり、あくまでも19416月以降のナチス・ドイツという絶対悪との対決にフォーカスしようとします(冒頭に写真を掲げた「永遠の炎」も、1941年以降の戦没者に捧げられている)。

なお、ポーランドは今年、第二次大戦の開戦から80年を記念する式典を予定していますが、その行事にプーチン・ロシア大統領を招かないことを決めました。メルケル・ドイツ首相は招待されているそうなので、侵略の歴史よりも、今日の政治関係を重視した判断でしょう。これについてロシアの大統領報道官は、「大祖国戦争と第二次大戦を記念する式典に、ロシアの参加がないとしたら、世界のどんな国においても、それは不完全なものとなるだろう」とコメントしています。

独ソ戦のことを考えるにつけ、筆者のような皮肉屋の外国人は、「いっそのこと、ナチス・ドイツと、スターリン体制という2つの『悪』が差し違えて、両方とも倒れればよかったのに。その方がソ連/ロシア国民にとっても幸福だったのでは?」などと、余計なことを言いたくなります。しかし、かつてのソ連や今のロシアの人たちに、そのような発想は微塵もありません(そもそもスターリンが悪だとはあまり考えられていない)。彼らにとって大祖国戦争とは、文字どおり自分たちの生存をかけた戦いだったのです。

なお、ソ連/ロシアの歴史観のご都合主義について指摘しましたが、我々日本人も、もしかしたら同じような偏りを抱えているかもしれません。1941128日に開戦した太平洋戦争の経験が重視されるのに比べ、それに先立って1937年から続いていた日中戦争については充分な問題意識を持っていない傾向があるような気がします。

これは(ロシアではなく)ベラルーシにある大祖国戦争博物館のジオラマ展示。ベラルーシは独ソ戦で壊滅的な被害を受けた地域の一つだった。(撮影:服部倫卓)

決定的に異なる日本とロシアの終戦の風景

日本もロシアも、第二次大戦の帰結がその後の歩みを決定付けたという点では同じです。しかし、敗戦国の日本と、戦勝国のソ連/ロシアでは、その方向性がまったく異なります。

日本人の心に刻まれている終戦の風景は、815日に焼け野原の中で、皆が打ちひしがれながら玉音放送を聴くというものでしょう。戦後世代も、テレビなどでその風景を繰り返し見ることによって、それが原点となっています。多くの日本人が、平和の誓いを新たにするイメージでしょう。

一方、ソ連では、194559日にナチス・ドイツに対する戦勝が伝えられると、皆が自発的に表に繰り出し、お祭り騒ぎとなりました。祝砲が鳴り響く中、人々は誰彼となく抱き合い、涙を流しては、勝利を喜び合ったのです。ヨーロッパ戦線が終結したとはいえ、このあと対日戦争が続くことになるのですが、ソ連の人々にとっては、59日をもって実質的に第二次大戦が終わったという感覚でしょう。

ソ連の欧州領土の広大な領域は、日本と同じように焼け野原になっていました。しかし、苦しい戦争を最終的に勝利で終えたソ連の場合には、「これからも、より強くあろう」という決意にみなぎっていました。と同時に、「これだけの甚大な損害を負いながらナチス・ドイツを倒した我が国は、戦後世界において特別の地位を認められるべきだ」という特権意識が生じます。今日の日露交渉で、先方がなにかと「第二次大戦の結果を認めよ」と言ってくる背景にも、その意識があります。

さて、当時の最高指導者スターリンは、国民が対独戦勝に沸いたこの59日を、国の祝日に指定しました。1948年から1964年にかけて、祝日ではない単なる記念日に格下げされていた時期もありましたが、戦勝20周年を記念して1965年に祝日として復活、今日のロシアでも一年で最も重要な祝日となっています。

実は、ドイツによる降伏文書の調印にはちょっとした経緯があり、その受け止め方の違いから、欧米諸国は58日を対独戦勝記念日にしています。ロシアでも、「諸外国と同じように、58日を戦勝記念日にした方がいいのではないか」という議論が、時折聞かれます。しかし、194559日に、人々が歓喜のあまり表に飛び出して、心から喜びを分かち合ったことが、この祝日の原点です。もう何十年もその日付で祝われてきたわけですし、今さらそれが変更になることはまずないでしょう。

ソ連による南樺太占領作戦に関する博物館展示。サハリン州地誌博物館にて(撮影:服部倫卓)

戦争は815日で終わったわけではない

1945年5月にナチス・ドイツが降伏したことで、ソ連では国民は終戦ムードに浸り、指導部も戦後の秩序へと関心を移しました。しかし、ソ連の戦争はまだ終わったわけではなく、むしろアジアではまさにこれからでした。ソ連はヤルタ会談での合意にもとづき、8月8日に対日宣戦布告し、翌9日にソ連軍は対日攻勢作戦を発動しました。

すでに述べたとおり、日本人にとっては、8月15日の玉音放送が、戦争の終わりを告げるものでした。翌16日に大本営は全軍隊に対して戦闘行為を停止するよう命令し、これにより太平洋戦争の戦火は基本的には収まりました。第二次大戦が正式に終結するのは、日本が対連合国降伏文書への調印を行った1945年9月2日でしたが、日本はすでに白旗を挙げていたのです。

しかし、遅れて対日戦に参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も、満州、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島への進撃を続け、日本軍も自衛的に応戦せざるをえませんでした。ソ連軍による作戦は9月2日の降伏文書調印後も続けられ、ソ連軍が一方的な戦闘攻撃をようやく停止したのは、9月5日のことでした。戦後、日本では常にソ連が嫌いな国ナンバーワンでしたが、共産主義イデオロギーに加えて、第二次大戦終結時の火事場泥棒のような振る舞いが、ソ連への憎悪に繋がっていたことは疑いありません。

世界的には、降伏文書調印の9月2日が、対日戦勝記念日になっています。ところが、対独戦勝記念日のケースと同じように、ここでもソ連/ロシアは1日ずれていて、9月3日が対日戦勝記念日として祝われる時代が長く続きました。新生ロシアの時代になっても、当初それは変わりませんでしたが、2010年7月に9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とする法案が成立し、それに吸収される形で、9月3日の対日戦勝記念日はなくなりました。

退役軍人やサハリン州住民の間には、9月3日の対日戦勝記念日がなくなってしまったことに不満な人々もおり、彼らは復活運動を試みています。しかし、プーチン政権は、日本との関係に配慮してか、今のところ応じる姿勢は見せていません。