Pothos
去年の8月、失恋したてだった私はところかまわず泣き明かした末、チャイナタウンにあるお気に入りの園芸ショップにたどり着いた。人生に(いや、せめて週末に)新しい目的を与えてくれるような何かが見つかると思ったのだ。
私はプラム色のゴムノキに50ドル支払い、この木とこの先、何年も一緒に暮らす日々を夢見ながらカナルストリートを連れ帰った。この子なら、当時半ばもぬけのからで悲しみに覆われていた部屋に生気を宿してくれる。強そうに見えたし(あまりに重くて家がいつもより遠く感じられた)、自分も心身ともに強くなれそうと思った私は、この木をミシェル・オバマと名づけた。
2カ月後。植物園の電話相談によれば「根腐れ」で、祖母によれば「水のやり過ぎ」で、そして過去の恋へのあきらめの悪さなんかも重なって、私はミシェルを枯らしてしまった。
同じ頃、旅行中に見てほしいと、友達からポトスを預かった。彼から受け取り、カーテンの手前にぶら下げたきり、ほとんど忘れてしまった。
筋張ったツルから、つやのあるハート形っぽい葉が垂れ下がるポトス。よく窓辺に吊るされたりして、床までツルを伸ばしているあれだ。観葉植物の中でも一番たくましく、一番身近で、よく行く雑貨屋に一つ、コインランドリーには二つ、言いにくいけど私の自宅には今三つある。
多くを求めないポトスには、どんな光、どんな水、どんな土壌でも育つ性質がある。スーパーにもあるほどなのだから、枯らしてしまうほうが無理な話だ。植物栽培不適合者で、身も心もブラックな失意の独り者にとってはまさに、パーフェクトな植物だった。
我が家のポトスが順調に育つのに気をよくした頃、友人5人がそろいもそろって同じコラムを送りつけてきた。「なぜミレニアル世代は観葉植物に夢中なのか」(雑誌「ナイロン」電子版)。
アメリカでは18歳から34歳の500万人が2015年の間にガーデニングを始めたといい、ミレニアル世代の37%にあたる人々が室内で何らかの草木やハーブを育てているらしい。土いじりに対するこの思いは、私だけじゃなかったようだ。
「健やか」な何かを求めてしまうから、というのはある。私たちが家と呼ぶ、うんざりするような安アパートに一筋の緑を走らせたくもあるのだろう。
しかし最たる要因は、植物は自分が大人になったと感じさせてくれるということだ。結婚、子ども、マイホーム……。従来の「大人の証し」を手に入れるのが遅くなったり、手が届かなくなったりするなかで、家に帰ると自分を頼ってくれる存在がいるというのは、心安らぐものがある。
ゆえに植物の栽培は、大人らしさを稼働させるための試行錯誤の場であり、自分がどんな人間なのか見極められる手ごろな投資だ。枯らしても法的には許される以上、何かを所有することやそれに伴う責任とは何たるかを、身構えず安心して試してみられる。とはいえ、何か間違えたら、葉がしおれたり、変色したり、虫が襲来したりして律儀に訴えてくる。だから「ダメ出し」があまりに続くようになると、ズボラでも持ちこたえてくれるような植物にいてほしくなる。
だから、ポトスだ。ほぼすべての生きとし生けるものの命を奪う環境下にあっても、鉢にさえ入っていたら2~3メートルに達する。
電話相談からの知恵やら自分の知識を総動員しても、依然、私は失敗してしまうことがある。ツルを暖房に近づけすぎて下半分を黒焦げにしてしまったり、休暇から帰ったら土の表面が干からびてひび割れていたり。日当たりの悪い窓辺に置いたときには、しぼみ、黄ばませてしまった。
毎週火曜の朝、ワインの空き瓶で水をあげながら、うちのポトスは今日も生きてる、と思う。ポトスは私に、寛容であることの大切さを教えてくれた。ツルが一本だめになっても、ふと見ればまた新芽を出している。それは、また前に進むチャンスがあるということなのだ。(ジャズミン・ヒューズ、抄訳 菴原みなと)©2017 The New York Times
Jazmine Hughes
1992年生まれのフリーライター。ウェブマガジンを中心に「ニューヨーカー」「エル」「コスモポリタン」に寄稿。
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