里親は、迎え入れるこどもにとって“一番身近な大人”です。親と同様の役割を求められるときもあれば、実親とは違った里親ならではの役割を担う場面も出てきます。乳児院や児童養護施設で暮らした経験のあるこどもたちは、里親とともに過ごす時間をどう受け止めているのでしょうか。

3歳のときに里親家庭に迎えられ、高校2年生となった今も里親の元で暮らす小賀坂小春さんと、中学3年から高校卒業まで里親家庭で野球に打ち込み、今は結婚して二児の父となった池田累さんにお話を聞きました。

―小賀坂小春さん

小賀坂小春さん

「うちの仲間にならない?」 寂しかった心に、里親の言葉が響いた

小賀坂小春さんが乳児院に預けられたのは、生後まもないころ。母親は病気のため自ら育てることができず、小春さんは3歳まで施設で過ごしました。

「寂しかったです」と、小春さんは当時を振り返ります。「乳児院では運動会などのイベントがあって、その日だけは親が会いに来てくれる子もいたんです。それなのに、どうして私は一人なんだろう。なんでお母さんは来てくれないんだろうって、ずっと思っていました」

施設の職員も優しく接してはくれるものの、シフト制なので常に同じ人がそばにいてくれるわけではありません。自分だけを見てくれる人がほしいという気持ちは、日増しに大きくなっていきました。

そんな小春さんの前に現れたのが、後に里親となる齋藤直巨(なおみ)さん(※以下、なおさん)、竜(りょう)さん夫婦です。

「私たちは小春ちゃんがうちの仲間になってくれたら嬉しいなと思っているから、もし仲間になってもいいなと思ったら教えてね!」と初めになおさんから自己紹介をされました。夫婦の実子である二人の女の子やおばあちゃんも交えて乳児院やなおさんの家で交流を重ね、ある日、3歳の小春さんは「わたし、仲間になる!」と自分で決めました。

ずっとこの家にいられるのかなと不安のあまり、本音が言えなくて

朝起きると家族がいて、みんなで朝ごはんを食べて、一つ上のお姉ちゃんと一緒に保育園に行く――。里親家庭での生活は、小春さんのこれまでの毎日とは何もかもが違っていました。

「今ではうちの笑い話になっているのですが、この家に来てから1カ月半くらいは夜中に自分の布団を抜け出して、なおさんたちが寝ている部屋に行っていました。足音も立てずに枕元に立つので、気配で目を覚ましたなおさんは『わ! どうしたの!?』と、すごく驚いていました」

小賀坂小春さん

乳児院では、夜になると昼間にいた職員は帰ってしまうそうで、「なおさんたちも夜にいなくなっちゃうんじゃないかって心配だったんです」と、小春さん。毎晩、「今日もいる」と繰り返し確認したことで、やっと安心して眠れるようになりました。

とはいえ、「自分は仲間になれるのか」という不安は常につきまといます。苦手な納豆が食卓に並んでも「大好き」と自ら食べて、本当はまだ食べたい気持ちがあっても「もうお腹いっぱい」と、家族に合わせていました。「合わせることで仲間になれると思っていたので嘘をついていました」

本当の気持ちを言えない小春さんと家族をつなぐ架け橋になってくれたのが、一つ上の姉でした。「同じ保育園に通っていて、ずっと一緒にいるので、姉の優しさや裏表のなさが見えてきて、一番初めに信頼しました。誰よりも先に本音を言えたと思います。『本当は納豆、嫌いなんだ』ということをなおさんには言わないようにお願いしたけど、帰ったらすぐに報告されてしまって(笑)。そこでなおさんに『嫌いなものは嫌いって言っていいんだからね』と言ってもらえて、あぁ、本当の気持ちを言っても怒られないんだ、仲間外れにされないんだなって気づきました」

姉はいつでも、小春さんの一番の味方でいてくれました。「私が自分の家のことを『うち』って言って、お友達に『小春ちゃんの家じゃないんだから、うちって言っちゃダメだよ!』と言われたときも、姉が『小春のうちだからうちって言っていいんだよ!』と言い返してくれて、すごくうれしかったです」

思わず家を飛び出した日をきっかけに、本当の“仲間”に

「齋藤家はみんな優しい」と、小春さんは言います。なおさんと一つ上の姉だけでなく、竜さんも、六つ上の姉も、みんなが小春さんを家族として受け入れてくれました。でも、うれしい気持ちがある反面、不安な気持ちもありました。「こんなに楽しい家族の中に自分がいてもいいのかな、本当にみんなは私を愛してくれているのかなって疑ってしまうんです」

なおさんたちと仲良くしたいのに、ダメだと言われたことをあえてやったり、嘘をついたり。愛情を試すような言動を「いろいろやってしまった」そうですが、中でも最大のものが小学4年生の時の家出です。

「家出をする2週間ほど前に、サッカーの習い事に行くときに持たせてもらった“もしものとき”用のお金を飲み食いで使い果たしてしまって、なおさんに『もしもの時に小春を守れなくなるから、使ったら報告しなさい!』と叱られたんです。結局許してもらえて、次の日からまた普段の生活に戻ったんですけど、私の中では『本当に許してもらえたのか?』って思いがずっとありました。その日、一つ上の姉とちょっとしたケンカをしたことが重なり、家出してしまいました」

時刻は夜7時。使い果たしてしまったことを交番で話すと、「お母さんに謝るんだよ」と諭され家に帰るように言われました。仕方なく家に向かっていたところ、なおさんが血相を変えて走ってくる姿が見えました。「これはヤバい」と慌てて逃げ出したものの、その後友達の家を訪ねたところを保護され、警察の人と一緒になおさんが迎えに来てくれました。

「『あんた、どこ行ってたの!?』と涙を流して叱るなおさんから、姉たちも心配して探していたと聞き、ものすごく反省しました。この家出をきっかけに、あぁ自分はこんなに大切にされているんだなと思い、家族を試すような言動も少しずつ減っていったと思います」

小賀坂小春さん

里親制度が広まって里親が増えると、こどもや大変な思いをしている親の助けになる

それからしばらくして思春期を迎えると、再び反抗的な態度をとることはあったそうです。「ツンとしてもなおさんたちは『反抗期だね~』とニコニコしているので、反抗するのがなんか微妙な感じになって、そう長くは続きませんでした。悪いことをして叱られても、なおさんは仲直りするきっかけを作ってくれるんです。たとえば、険悪なムードのときでも、あえて『小春スペシャル(特製カフェオレ)作って!』とお願いしてくるんです。むしゃくしゃしながら作り始めるんですけど、作っている最中に気持ちが落ち着くし、自分の悪かったところも見えてきます。出来上がって持っていくと『小春、ありがとう!おいしい!』と言って和やかなムードに変えてくれるんです」

小春さんは一昨年、実親と面会しました。「会いたかったとか、なんで一緒に暮らせなかったのかなとか、いろんな気持ちがあったけれど、なおさんたちは『いろんな感情があっていいんだよ』と言ってくれました。当日は、姉たちとなおさんがついて来てくれました。姉たちは緊張をほぐそうと、いつも通り楽しくおしゃべりしたり、お菓子を用意してくれたりしました」

「実家族は家族仲も良かったため、どうして自分はこの中に一緒にいられなかったんだろうと正直モヤモヤしましたが、『モヤモヤも、ネガティブな気持ちも、そのまんまでいいんじゃない』となおさんたちは受け入れてくれました。家族って血のつながりではないんですよね。自分が安心できる場所に信頼できる仲間がいる、それが家族なんだと私は思います」

小賀坂小春さん

小春さんに、日本で里親制度が広まると良いと思うか聞いたところ、こう答えてくれました。「今、日本にはさまざまな事情で家族と暮らせないこどもが約4万2千人います。里親さんの数が増えるほど、寂しい思いをしているこどもの数も減るので、里親制度はもっと広まってほしいです。それはこどものためにもなるし、子育てで大変なときに親を助けることにもなるかもしれません」

「こどもが自分のルーツを消さなくていい、自分のままでいていいみたいな感じがあるところが、里親制度の良いところです。でも、仲良くなるまでが大変だから、他の里親さんや地域の人と一緒に育てていくイメージの方がいいのかなって思います。一人でがんばりすぎると、こどもの愛情を試すような行動にたぶん疲れてしまうから。なおさんもよく、おばあちゃん(なおさんにとっては義理のお母さん)に愚痴を聞いてもらっていたそうです。里親さんがリラックスして本音を話せる場所も必要ですよね。里親制度はまだそんなに知られていないので、学校の教育でも知る機会があるといいのになと感じています。これからの社会を作っていくのはこどもだから、こどもたちが里親制度について学べば、里親家庭で育つのは特別なことじゃないという社会に変わっていくと思うんです」


小賀坂小春さん

こがさか・こはる/2006年生まれ、東京都在住。生まれてすぐ乳児院に預けられ、3歳から里親家庭で育つ。2021年に実親と対面し、実名で活動する許可を得る。現在、里親家庭で暮らす委託児童や実子を支援する一般社団法人グローハッピーが主催する「こども会議」のこども委員、ファシリテーターを務める。


―池田累さん

池田累さん

野球に打ち込みたくて、気持ちを尊重してくれた里親家庭へ

高校卒業後に不動産会社に就職し、今は2児の父である池田累さんは、中学3年から高校卒業までを里親家庭で過ごしました。池田さんが児童養護施設で暮らすようになったのは9歳のとき。こどもの頃から野球が好きで、もっと野球に打ち込みたいという思いを持っていましたが、施設で共同生活をしている以上、起床時間や就寝時間、日中の活動などは周囲に合わせる必要があり、野球だけに集中するのは難しい環境でした。

「プロ野球か、社会人野球の選手になりたい」。その夢を叶えるための切符は、中学生のときに目の前に差し出されました。「志望していた強豪校から推薦の話がきたんです。でも現実的に考えて、朝練はもちろん夕方遅くまで練習して、帰宅は夜。土日も練習漬けの生活なんて、施設にいたままではできませんよね」

結局その話は断ったものの野球は諦めきれず、公立の強豪校を受験することに決めました。「成績は悪くなかったので、受験はがんばればなんとかなる。でも、高校で野球に打ち込むならやっぱり施設を出る必要があるので、『里親家庭で暮らしたい』と懇願しました」

実は池田さんは10歳の頃から「施設を出たい」と申し出ていましたが、なかなか機会は巡ってきませんでした。しかしこのときは、「高校入学までの1年間だけでも良ければ」と、迎え入れてくれる里親が見つかりました。さらに幸運なことに、高校合格後に受け入れてくれる里親まで現れたのです。

「どちらの里親さんも、野球をやりたい気持ちを汲んでくださって本当にありがたかったです。最初の里親さんは1年間だけでしたが、受験という大変な時期を支えてくれました」

里親家庭での普通の暮らしが、自分にとっては特別な体験だった

高校入学と同時に、新しい里親家庭での生活が始まりました。里母は看護師、里父は自動車整備の仕事をしていて、2人の実子は既に成人して家を出ています。「里親家庭には、私以外にも3人の高校生が預けられていました。里親さんは『やりたいことは遠慮しないでやりなさい』というスタンスだったので、みんな自由で賑やかでしたね」

池田さんはといえば、平日は朝早くから学校へ行き、家に帰ってくるのは夜9時過ぎ。土日は県外遠征という野球一色の生活で、ほとんど家にいませんでした。「1日を乗り切るのに精一杯で、里親さんと会話する機会はあまりなかったです。でも、遠征に行くときは朝3時に起きて学校まで送ってくれました」

交わす言葉は少なくても、里母は毎晩、疲れて帰ってくる池田さんのために温かい食事を用意してくれました。「レンジで温めて食べなさいって感じで先に寝ててもいいのに、わざわざ作ってくれるんです。学校に持っていくお弁当も用意してくれたし、本当に、親以上のことをしてもらいました」

池田累さん

野球がしたいからと里親家庭での生活を希望した池田さんですが、それとは別に、「普通の暮らし」への憧れもあったといいます。「自分だけの部屋があって、その日にすることは全部自分で決めていい。家に帰ったら当たり前にごはんがあって、風呂に入って寝る。そんな普通の生活がしてみたかったんです」

実親と暮らしていたときも、施設にいたときも、「ここが自分の居場所だ」という意識は持てなかったそうですが、里親家庭で暮らすようになり、野球の練習でへとへとになったある日の帰り道、玄関の明かりがついているのを見てふと、「ここが自分の家なんだ」という感覚になりました。「母は夜勤もあったはずなんですけど、たぶん私がいた頃は調整してくれていたんじゃないかな。家で自分を迎えてくれる人がいて、とてもうれしかったです」

養育を外れてからも続く、里親との温かい交流

野球ができる大学に進学したいと考えていましたが、高校2年生のときに里親と共に学費や生活費のシミュレーションをしてみたところ、年間400万円以上かかると知り、断念。「奨学金を借りても返済が厳しいから、とても無理だなと。里親さんも落ち込んでいましたけど、自分と感情を共有してもらえたのはいい経験になりました。お互いの考えをクリアにしたことで、それ以降の生活でも以前より分かり合えるようになった気がします」

里親は、社会に出てから困らないようにと、ユニフォームの洗濯や食器の片付けなど、身の回りのことは自分でするよう勧めました。「寡黙な父が注意してくるときはよっぽどなので、すぐに動いていましたね。それと、父や母が毎日身支度をして仕事に行く姿を間近で見られたのも、私にとってはすごく大きかったです。これが普通の暮らしで、自分もこういう風に社会に出ていくんだとイメージできました。2人は、私にとって人生の先輩です」

池田累さん

就職に際し、不動産業界を選んだのも里親家庭での暮らしが影響しています。「やっぱり、衣食住は生活の基本。里親家庭で住居のありがたみを身にしみて感じたので、困っている人にも住居を提供できるように経験を積もうと、この業界に決めました」

33歳になった今、池田さんが帰るのは妻と、6歳と4歳のかわいい我が子が待つ家です。「今日も一日無事に帰ってこられてよかったなって、よく思います。里親さんにしてもらったことを自分のこどもに還元したいという気持ちは強いですね。私が食事を作ると、こどもはすごく喜ぶんですよ」

無口だった高校生の頃とはうってかわって、養育を外れてからの方が里親との交流は増えました。「26歳で結婚したときも式に来ていただきましたし、こどもが産まれたときも報告をしました」と、池田さんは楽しそうに話します。

大好きな野球は今も続けていて、休日は地元の中学校で野球部のコーチを務めています。長男にも野球をやってほしいところですが、興味があるのはなんとサッカー。「野球じゃなくて少し残念ですけど、私も自分のやりたいことを里親さんにやらせてもらって今があります。だから息子にもやりたいことをやらせてあげようと、妻とも話しているんですよ」

里親になるために特別な準備をしなくても大丈夫

「里親が自分に務まるだろうかと躊躇せずに、気軽に一歩踏み出してもらえたら」。池田さんに、里親をやってみようか検討している人にどんなメッセージを送りたいかを聞くと、そんな答えが返ってきました。

「自分でこどもを育ててみて思ったんですけど、結局、子育てってやってみないとわからないですよね。こちらがこう育てたいと思っても、こどもにも意思があるので、思うようにはならない。自分の家に遊びにきた友達がそのまま何日も泊まっていくような雰囲気で迎えて、その子のやりたいことを手助けするスタンスで接するといいと思います」

特別なことをする必要はなく、いつもの生活の中に迎え入れる感覚でいいのだと、池田さんは強調します。「普通の家庭での過ごし方を知れるとか、社会経験が身につくというのが、こどもから見た里親制度の一番の価値です。施設にも良いところはありましたが、施設にいる大人は職員だけです。小さなコミュニティーで生活のすべてが完結していると、外の世界を知らないまま社会に出ることになってしまいます。働くこと、こどもを育てること、生活すること。こういった普通の人にとっての当たり前のことを知っているかどうかの差は大きいと、特に自分がこどもを授かってから痛感しました」

池田累さん

池田さんが高校3年間を過ごした里親家庭では、里母が周囲の人に「今度こんな子がくるから」と事前に話しておいてくれたそうで、それも新しい暮らしに馴染めた理由の一つなのではないかと感じています。「『おはよう』『野球がんばってね!』と、近所の人がよく声をかけてくれました。高校の担任で、野球部の監督でもあった先生は、たまたま家の50m先に住んでいたんですけど、外を走ったり、夜に素振りをしたりする私を気にかけてくれていたようです」。里親としてこどもを迎え入れることになったら、地域の人に伝えておくのも一つの良いやり方なのかもしれません。

「里親家庭を通して自分の世界を広げられたのは、私にとってはとても意味のあることでした。施設にいる子はいろいろ我慢をしなきゃいけない場面もあるけれど、やりたいことや、なりたい自分に向かって諦めずに道を切り開いていってほしいです」


池田累さん

いけだ・るい/1990年生まれ、神奈川県在住。9歳で児童養護施設に入所、14歳から里親家庭で育つ。高校卒業と同時に独立し、現在は結婚して2児の父。野球に打ち込んだ高校時代を支え、背中を見せてくれた里親夫妻は「人生の先輩」として現在も慕う間柄。