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長い分断が作り出した「異質感」 朝鮮半島の非武装地帯を歩いた

World Now 更新日: 公開日:
民間人統制区域とDMZの方向を望む。Photo:Kamiya Takeshi

カーナビに映らない世界

私の目には、車のフロントガラス越しに、臨津江(イムジンガン)にかかる橋と、その先に続く道が見える。だが、カーナビの画面は何も表示していない。

ソウルから北に約50キロ。橋の手前にある軍の検問所に着いた時のこと。カーナビにデータがないのは、これより先が、軍によって出入りを厳しく制限された民間人統制区域だからだ。

1950年に朝鮮戦争が勃発。3年後の休戦協定で軍事境界線が東西248キロにわたって引かれた。境界線に大きな壁があるわけではないが、南北それぞれ2キロにDMZが設けられ、鉄条網付きフェンスと兵士が行く手を阻む。DMZの手前に民間人統制区域があり、2段階の規制となっている。

一帯には300万個ともいわれる地雷が埋められている。DMZは「壁」の役割を果たし、行き来はほぼ不可能だ。

私が訪れたのは8月。別の日に予定していた統制区域内の取材は、米韓合同軍事演習と重なったことなどもあり、許可が出なかった。

検問所で軍の許可を得て、カーナビでは見えない橋を渡り、統制区域内のヘマル村を訪れた。政府が2001年、戦争前に住んでいた人たちのために帰村を認め、約60世帯、約150人がほぼ半世紀ぶりにここで暮らし始めた。

村の入り口に、「警告 未確認の地雷地域」の標識があった。ただ、村にはペンション風の家が並び、のどかな風景が広がっていた。

チェ・ソンウォン(73)の家を訪ねた。日本の植民地だった時代に村で生まれた。7歳の時に戦争が起き、父は何者かに連れていかれ、行方不明。母とは生き別れた。祖母に育てられたが、祖母が亡くなると孤児となった。長じてソウルで商売をして暮らした。引退を考え始めたころ帰村の話を聞き、移り住んだ。

チェ・ソンウォンの娘はカナダ人と結婚し、カナダに住む。帰省した孫が妻のキム・ギョンスクと家の前で遊んでいた。Photo:Kamiya Takeshi

「失郷民」という言葉がある。北朝鮮に故郷があるが行き来できず、韓国に住む人たちのこと。故郷や家族を、今も思い焦がれている。

チェの祖母の生まれも北朝鮮の開城だ。しかし彼は「DMZの解除は望まない。今の豊かさはDMZが守っている。村の人もそう思っている」と断言する。彼自身は失郷民2世。時が経ち、父母世代とは違う考えが増えている。

DMZや南北統一に向けるこうした意識は、この村に限ったことではない。韓国統一研究院の世論調査がある。「統一の必要性」について聞くと、2014年に必要と答えたのは69.3%だった。昨年は62.1%、今年は「とても」13.8%と「若干」44.0%を合わせ、「必要」は57.8%と減り続けている。「統一のために生活を少し犠牲にしてもいい」と答えたのは11.2%だった。

非武装地帯が生んだ「心の壁」

DMZは南北の人々の間に、「心の壁」も作り出している。

韓国の映画やドラマを販売して当局の取り締まりを受け、平壌から地方に追放されたチェ・ソングク(37)は、脱北を決意した。

韓国と接するDMZは幅4キロしかない。しかし、兵士による監視、鉄条網、地雷は越えられない。7年前、彼は中国にぬけ、ラオス、タイを1000キロ以上経て、韓国に来た。

彼は、脱北する人たちの理由が変わってきていると話す。飢えや政治の問題より、「最近は暮らしの質を求めて来る人が大半」と語る。そんな彼らは、韓国社会で「異質感」に悩むことになる。

彼が韓国の会社で働き始め、こんなことがあった。上司から「これをやってくれたら嬉しい」と何度か言われたが、何もしなかった。社会主義であり権威主義で統治される北朝鮮では、言われないと仕事をしないし、言われた通りにしないといけない。命令と順守がすべて。彼には上司の言葉は命令でなかった。このような違いから怠け者扱いされ、会社を辞める脱北者も多い。

ある韓国女性の「友達」という言葉を北朝鮮式に「自分に気がある」と誤解し、プロポーズ。失敗したこともある。

「韓国に住む脱北者3万人も同じような南北のギャップに悩んでいるはず。なんとかして、それを埋めたい」。彼はアピールの方法として漫画に目を付け、出版社の代表から支援を受けてインターネットで連載を始めた。タイトルは北朝鮮の公式メディアの労働新聞をもじってつけた。1年前に始まり、300万以上の訪問者数を記録。本にもなって書店に並んでいる。

「南北の異質感がさらに大きくなる前に、僕の漫画で互いに少しでも共感してもらえれば」(文中敬称略)

民間人統制区域と臨津江。Photo:Kamiya Takeshi

壁と人類の付き合いは長い

壁と人類の付き合いは長い。その目的も、時代とともに変わってきた。

当初は異民族や外敵の侵入を防ぐのが主な目的で、中国の「万里の長城」は秦の始皇帝が紀元前3世紀に大増築し、全長は2万キロを超えるとされる。

欧州ではローマ帝国時代の2世紀、英国北部スコットランド周辺にそれぞれ当時の皇帝の名を冠した「アントニヌスの長城」(約60キロ)と、「ハドリアヌスの長城」(約120キロ)ができた。市街地を城壁で防御する城郭都市も各地につくられた。

現代になって壁建設が本格化したのは、2度の世界大戦の後、米国とソ連を盟主に東西陣営が対立した冷戦時代だ。

「鉄のカーテン」と呼ばれた分断の象徴になったのが「ベルリンの壁」。東ドイツ領に囲まれていた西ベルリンへの大量亡命を阻止するため、東ドイツ政府は1961年、突然、境界に有刺鉄線を設置し、その後、約155キロのコンクリートの壁を築いた。朝鮮半島では53年、朝鮮戦争の休戦協定で引かれた軍事境界線の南北それぞれ2キロに、248キロにわたる非武装地帯(DMZ)が設けられた。

宗教や民族の対立も壁建設の引き金になった。北アイルランドでは69年、カトリック、プロテスタント両派の衝突が武力抗争に発展。中心都市ベルファストに両派の居住区を隔てる約34キロの「平和の壁」がつくられた。地中海の島キプロスでは74年、ギリシャ系住民と対立したトルコ系住民の保護を名目にトルコ軍が北部を占領。約180キロの緩衝地帯「グリーンライン」で分断された。

ベルリンの壁が89年に崩壊して冷戦が終わった後は、移民対策としてできた壁が目立つ。米国は90年、メキシコとの国境沿いにフェンスの建設を始め、これまで約1130キロがつくられた。スペインは98年、モロッコ領に囲まれた飛び地のメリリャで、欧州入りを目指す不法移民を阻む約12キロのフェンスを設けた。難民危機に直面した2015年以降、ハンガリーやスロベニアなどが国境にフェンスを建てた。

01年の米同時多発テロ後は、テロ防止の役割も強調されている。イスラエルは02年、占領地のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸で分離壁の建設を開始。総延長は約450キロに上る。