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「世界を相手に商売を」中古車輸出で新興国へ。ネットと輸送網で次を見据える

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
photo: Semba Satoru

山川博功 ビィ・フォアード社長 調布駅前のビル最上階にあるビィ・フォアードのオフィスには、耳慣れない言葉が飛び交う。スワヒリ語、チェワ語、ベンガル語……。アフリカをはじめ世界各地から電話で問い合わせがきて、社員が対応しているのだ。社員の2割にあたる約40人は外国人。操る言語は30に達する。

世界126カ国・地域に日本の中古車を売っている。年間十数万台を輸出し、その大半は途上国向けだ。特にアフリカ諸国に強く、輸出全体の6割を占める。 フロアには、山川博功(46)の社長室はない。全員の席が見渡せる場所に机と椅子があるが、その席にいる時間も少なく、ミーティング室とを行ったり来たりする。「社長室なんかで仕事ができるほうが不思議。みんなが見えていないと、アイデアが生まれてこないじゃないですか」

2004年の会社設立前から山川を知る東京商工リサーチの世古文哉(49)は「設立当初は苦労していたが、日本車の質の高さと、厳しい車検制度でよい状態の車が多いことに着目し、今までになかったビジネスモデルを作りあげた」と評価する。

これまで輸出される中古車は、いったんドバイなどに輸送して外国の業者に売り、そこからアフリカに運ばれていた。しかし山川は、ネット販売で日本の中古車を世界中の顧客に安く、直接届ける仕組みを作りあげた。

車を買いたい人は、同社のサイトで欲しい車を選ぶ。日本から各地の港に輸送された後は、提携する現地の業者が車を運ぶ。海外向けの中古車販売サイトは他にもあるが、港から先の陸送網まで整備し、顧客に届けるサービスを徹底させたところは他にない。

転機はアフリカとの出合い

オフィスの入り口には自動車専用船の模型(写真手前)がある。左耳に光るダイヤのピアスは宝石商の父から買った。 photo: Semba Satoru

学生時代から、「世界を相手に商売したい」と思っていた。しかし、希望していた商社には採用されず。車好きだったこともあり東京日産自動車販売(当時)へ。営業の成績は新人賞を取るほどだったが、学生時代から続けていた自動車レースの参加費用がかさみ、借金が800万円に。「返済が追いつかない」と思い、3年で会社を後にした。

その後、運送業や宝石販売などを転々とした揚げ句、たどり着いたのが中古車ビジネスだった。中古車売買のカーワイズで働き始めた山川は、新車販売で培った営業力で一気に成績を伸ばす。1年後には借金を完済し、その半年後の1999年には「ワイズ山川」として独立した。

ところが、02年から中古車の買い取りだけでなく輸出も始めたところ、困難に直面した。車を現地に送っても仲介者にだまされたり支払いがなされないなど、トラブル続きだった。出た損失はミャンマーで2500万円、ニュージーランドで2億5000万円にのぼった。

カーワイズの創業者で現在はグループ会社会長の山本泰詩(58)は、山川を見込んで独立資金も出資していたが、見かねて「もう輸出はやめた方がいいんじゃないか?」と声をかけた。 だが、山川は「もう1年やらせてください」と粘った。「次に同じことをやらなきゃいい。失敗したんだから、改めればうまくいくだろうって」

危機を救ったのが、アフリカとの出合いと、インターネットだった。当時、日本からアフリカに向けた中古車輸出は主にパキスタン人が担っていた。パキスタン人脈を活用したビジネスのノウハウは知られておらず、日本人の間では「マフィアが絡んでいるんだろう」「車の骨組みに麻薬をしこんで密輸しているんだ」などとうわさされていた。

山川は、親しくなったパキスタン出身者から、その市場が実はもうかることを聞きつけていたが、アフリカは「何が何だか想像がつかない世界」で、ちゅうちょしていた。

06年、日本にあった国外向け中古車販売のサイトに加盟し、車を載せ始めた。当初はスポーツカーを中心に扱っていたが、付き合いで引き取った、解体に回すような古い車を試しに載せたところ、耳慣れない国から注文が入るようになった。ジンバブエ、ウガンダ……。どこだそれ? 1万円以下で仕入れた車が送料込みで17万~18万円で売れた。

photo: Semba Satoru

日本の中古車は走行距離が少なく、途上国ではまだまだ現役なのだ。スクラップが宝の山になる。学生時代に思い描いた「世界に向けた商売ができる」と身震いがした。

代金支払いへの不安などから、中古車売買の業界ではアフリカを軽視する風潮もあったが、山川は社員に「電話にはすべて出ろ、メールにはすぐ返信しろ」と徹底させた。信頼を勝ち得ると、評判が口コミやSNSで広がった。

08年のリーマン・ショックは、日本の中古車市場にも及び、売買が冷え込んだ。だが山川は、アフリカには金融危機の影響が少ないことを見抜き、底値まで落ち込んだ中古車を、銀行から借り入れをして買いあさった。全国のオークション会場を回って1週間に1度しか家に帰らず、妻の百合子(44)にとがめられたこともあった。だが、「事業を自分でやっている以上は、普通のサラリーマンみたいに家に帰れない」と飛び回り続けた。08年に1314台だった輸出台数は、10年には10倍に伸び、危機をチャンスに変えた。東日本大震災のときも、競合するパキスタン人たちが国外に避難している間に、仕入れに全力を挙げた。

新興のビィ・フォアードにとっては、仕入れた車を輸送する船の確保も課題だった。商船三井の山縣富士夫(55)は09年、知人を通じて山川から「九州から車を積めずに困っている」と相談を受け、福岡県の苅田港に200台を納めるよう打診した。約束した台数や車種を守らない中古車の荷主がいるなか、山川は期日までにきっちり納めてきた。「第一印象は怖い方かと思いましたが、前向きで勉強熱心。アフリカにもよく行き、現地の状況をよく知っていた」と山縣。今では商船三井は毎月1500台、ビィ・フォアードの車をアフリカに運ぶ。

「新興国のAmazon」目指す

パソコンが並ぶ社内。電子商取引のシステム構築には多額の投資をしてきたという。 photo: Semba Satoru

山川に商売の厳しさを最初に教えたのは母慶子(68)だった。福岡県内で美容室を開き、今も働き続けている。週1日の休日にも講習に行き腕を磨く母の姿に、「働くとは、お金をもらってお客さんに納得してもらうとはどういうことかを学んだ」と山川。慶子も「あの子は他人にも自分にも厳しい。私に似ているかもしれない」と言う。

山川はよく、「具体的にやってみることだよ」と口にする。妻百合子が好きな詩人、相田みつをの言葉にちなんだその言葉通り、社員のアイデアもよければ即座に採用し、任せる。

モンゴル出身のホロルジャブ・ガルエルデネ(32)は入社してすぐに、モンゴル市場の開拓を提案。4年で0台から月間800台を輸出するまでに飛躍させた。事業の進め方や新サービスについて「社長に提案して断られたことはない」という。

「世界中に『仕掛け』をちりばめている」と山川。アフリカ東部の未承認国家ソマリランドの現地紙に広告を出したこともある。いま仕掛けているのは、各国に広げた自動車の陸送網の活用だ。「目指すのは『新興国のAmazon』」と将来像を語る。車の部品や重機などから始め、さらに様々な商品を、日本から世界に送ろうともくろんでいる。

(文中敬称略)

MEMO

上・学生時代からのめり込んだ自動車レース。社会人になってからもしばらく続け、レースに出場した。 下・タンザニアのスタッフたちと山川。

スマホ…ビィ・フォアードがアフリカの国々で人気の理由の一つが、車が到着するまでの間、どこにあって何の手続き中なのか、スマホで逐一確認できる点だ。在日マラウイ大使館の参事官スティーブン・モズィは「アフリカの人は大金を振り込んだら、本当に車が届くのか気が気じゃない。その不安を解消してくれた」と話す。

社員…会社を急成長させた裏には、営業努力もある。取引先の接待に連れていっても恥ずかしくないよう空いた平日には社員を飲みに連れて行きマナーを教える。「僕らエリートじゃないんで、そういうところ大切にします」。毎年1回、全社員を連れて海外旅行に行く。

社名…明治大学出身でラグビーファン。社名は、明大ラグビー部を長年率いた元監督の故北島忠治の言葉「前へ」からつけた。