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世界の書店から

カミュと女優の書簡集

[第217回]浅野素女 ライター

Photo:Nishida Hiroki

ノーベル賞作家アルベール・カミュと女優マリア・カザレスの865通におよぶ書簡集である。どちらもそれぞれの分野でフランスを代表する大物だ。書簡集というと、作家側の手紙だけの場合が多いが、本書は双方向で、電報なども含めて1300ページにおよぶ。単に恋文というだけでなく、当時の文芸・演劇・映画界の内実も凝縮されていて文学的価値は高い。


ふたりは1944年6月、ドイツ占領下にあったパリで出会った。30歳と21歳。すでに『異邦人』を発表していたアルジェリア出身の作家は、故国に妻を残していた。フランコ政権の手を逃れてやってきたスペイン出身の若い女優は、フランスの地で新しい地平を切り開こうとしていた。彼女はカミゅの劇作『誤解』の主役のひとりに抜擢されていた。それから1959年の衝撃的な自動車事故によるカミユの死まで、ふたりの関係は硬い鉱物の輝きを放って、なにものにも破壊されない崇高さを保持した。


カミユは幼いふたごを抱えた妻と生涯別れようとはしなかった。一方で、数々の浮名も流した。だが、カザレスとの関係は特別なものだった。時に自分を疑う作家を励ましつつ、自分の演劇活動や生活を事細かに報告するカザレスは、カミュを深く愛しつつ、決して情念の泥沼にはまり込むことはなかった。書簡の行間から溢れる揺るぎない愛情と連帯に、読む者は打たれずにいられない。 


ピカソ、サルトル、ジッド、プレヴェール、コクトー、カルネ、俳優のジェラール・フィリップ、ジャンルイ・バロー、ミシェル・ブーケ、イヴ・モンタンなど、ふたりのまわりには、戦後フランス芸術界をいろどる綺羅星のような巨人の名前が連なる。それだけでも、あの時代の濃密さにめまいを覚えてしまう。


さらに心を打つのは、この書簡集がカミュと妻の間に生まれた娘、カトリーヌ・カミュの采配によって出版されたという事実だ。母の死後、カトリーヌはカザレスに会見を申し込む。父とカザレスの関係については母から聞いていた。夫の愛人だったカザレスのことを、カトリーヌの母は、一種の敬慕の情さえ込めて話していたという。父の愛人だった女性と娘は、出会ったその日、まるで旧知の友のように何時間も語り合ったそうだ。


その後、カトリーヌは、いまは亡きカザレスから、ふたりの間で交わされた書簡を買い取った。そして今回、真昼の地中海の太陽のように眩しい幾多の恋文の発表にこぎつけた。


カミュという、人間の弱さも崇高さも備えた男のまわりを囲む三人の女性。そこには一種のエレガンスというか、ごまかしようのない真実と生の輝きを許容する人間の奥行きを感じる。


序文の最後をカトリーヌ・カミュはこう結んでいる。


「彼らふたりに、ありがとう。手紙を読めば、ただふたりが存在したがゆえに、この地上はより広く、空間はよりきらめき、空気はより軽くなる」


(次ページへ続く)

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