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『否定と肯定』 歴史を否定する人と同じ土俵に乗ってはいけない

シネマニア・リポート 更新日: 公開日:
『否定と肯定』より、デボラ・E・リップシュタット役のレイチェル・ワイズ © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

裁判の直接のきっかけに使われたのは、リップシュタット教授が1993年に出した著書『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』。英国人デイヴィッド・アーヴィング(79)は翌年、リップシュタットが講義中のエモリー大学の教室に乗り込み、学生たちの前で彼女を噓つき呼ばわりして責め立てた。この時の様子は映画の冒頭、リップシュタット役のレイチェル・ワイズ(47)と、アーヴィング演じるティモシー・スポール(60)が再現している。

リップシュタット教授はそれまで、アーヴィングに会ったことはなかったという。リップシュタット教授は当時を、「車のヘッドライトに突如照らされた鹿のように身動きができず、どうしたらいいかわからなかった。彼を無視すれば、私が彼にどう答えればいいかわからないのでは、と学生に思われる可能性もあった」と振り返る。

『否定と肯定』より、デイヴィッド・アーヴィング役のティモシー・スポール © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

そうしてアーヴィングは1996年、リップシュタット教授と著書の版元ペンギン出版を名誉毀損で訴えた。しかも、米国ではなくロンドンで。

名誉毀損訴訟は、表現の自由を幅広く認める米国だと原告に立証責任があるうえ、原告が公人の場合、被告に「現実の悪意」があったことも証明しなければならない。その分、勝訴した場合は得られる損害賠償額も大きくなる傾向があるが、逆に言えば簡単には訴えられない。一方、英国は名誉毀損で訴えられた側に立証責任がある。つまりこの訴訟の場合、「ホロコーストはなかった」とするアーヴィングの論拠が間違っていることをリップシュタット教授が証明しなければならない。国外での裁判、費用も莫大だ。

しかも、敗訴すればユダヤ社会に大きな影を落としかねない。

デボラ・E・リップシュタット教授=外山俊樹撮影

だからこそ弁護団は法廷で、リップシュタット教授にもホロコースト生存者にも証言させなかった。「噓をついている人たちと私たちが同じ土俵に乗ることになるからだ。そのやり方はものすごくうまくいった」とリップシュタット教授。詳しくは映画をご覧いただくとして、つまり「ホロコーストはなかった」という荒唐無稽な論を、学者が緻密に積み上げた見解と並列させて議論すると、前者がまるで傾聴に値するかのように思わせてしまう。だから同じ土俵に乗ってはいけないというわけだ。

それにしても重い裁判だ。これを突如背負わされる形となったことについて、リップシュタット教授は言う。「私よりも長年、あるいはひどくアーヴィングを批判する人は他にいたのになぜ、私がターゲットになったか。私は大西洋の向こう側の米国にいて、英国にいる人たちよりも防戦に苦労する。これが第一でしょう」

『否定と肯定』より © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

続いてリップシュタット教授が理由に挙げたのは、まさに私が尋ねようと思っていた点だった。「アーヴィングはほかに、ホロコースト史家でジャーナリストの故ジッタ・セレニーも訴えていた。つまり、彼は女性だけを訴えていた。彼はミソジニスト(女性嫌い)。法廷でも彼はそうした発言をしている。女性は戦いやすい、と考えたのだろう」

ちなみに映画で再現された法廷でのやり取りはすべて、実際に語られたものだ。「私たちはその点、とても慎重にした」とリップシュタット教授は言う。

『否定と肯定』の撮影で、主演レイチェル・ワイズ(手前右端)らと話すデボラ・E・リップシュタット教授(手前右から2人目) © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

リップシュタット教授は、否定論者たちが女性をターゲットにしがちな傾向が今も広がっていると指摘する。「女性の記者やブロガーは、『殺してやる』『強姦してやる』『嘘つき』と攻撃され、『彼女に書かせるべきではない』と執拗に追いかけられる。女性だからだ」

リップシュタット教授自身は親族の誰ひとり、ホロコーストで犠牲になっていない。父はドイツ生まれだがナチス台頭以前の1926年にドイツを離れ、きょうだいもドイツ国外にいたし、母方はカナダ・米国出身だ。「だからこそ、歴史を学ぶのはとても大切だと感じた」とリップシュタット教授。身近な犠牲者がいなかったからこそ、客観的に研究を続けられた面も大きいだろう。

『否定と肯定』より © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

ホロコースト否定論を長年研究してきたリップシュタット教授は力説する。「世界にはホロコーストだけでなく、米先住民の虐殺もアルメニア人虐殺もルワンダの虐殺も、南京大虐殺も戦時慰安婦の存在も、地球温暖化も否定する人たちがいる。ナチスや米国人、オスマン帝国、フツ派、日本がそこまでひどいことをしたと思いたくない。『不都合な歴史』だからだ」

リップシュタット教授は彼らの巧みな論法をこう突く。「米シャーロッツビルで集会をした人たちも『私たちは人種差別主義者ではない、白人の居場所が必要なだけだ』と言う。でもそれは米国がかつて『分離』という形で経験したこと。白人の居場所がほしいというのはつまり、黒人はいらないということ。彼らは人種差別を、理にかなったものに見せかけているだけ。否定論者は『否定』という言葉も使わず、『ただ歴史を正したいだけだ』と言う。まるで羊の皮をかぶった狼のようだ」

デボラ・E・リップシュタット教授=外山俊樹撮影

日本でもよく目にする論法だ。「人種差別も偏見も、この世から消し去ることはできないでしょう。否定論者は筋金入りだし、考え方を変えることもできない。だが彼らが影響を与えるかもしれない人たちに、私たちが影響を及ぼすことはできる」とリップシュタット教授は語る。

そう言い切れるのも、この裁判を乗り切ったからこそだろう。「判決日は、どんな報道が出てくるか気になった。アーヴィングが報道陣に『これはすべて嘘だ』と言い立てるのではないかと。でも新聞は彼を『ホロコースト否定論者』と書くようになった。法廷がそう宣言したからだ。確かに彼は否定をやめなかったが、人々が彼に注目するのをやめた。彼はいまや『年老いた嘘つき』と見なされている」

『否定と肯定』より © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

訴訟は結果的に「いいこと」でもあった、ということだろうか。「訴訟が終わるまではそうは考えられなかったけど、後に、あなたの言うような気持ちになった。公に主張するメガホンを与えられた気持ち。私自身は訴訟前から何も変わっていないが、人々の見る目は変わった。彼は自滅した」

逆に言えば、そのためにこれだけの労力をかけなければいけなかったということか――。そう考えていると、リップシュタット教授は激励するように言った。「ナチスが台頭した時、『ユダヤ人差別はよくないが、ドイツを再び偉大にしてくれるのはいい』と人々は妥協した。でも基本的な信念は妥協してはいけない。たたかい続け、メディアも『嘘は嘘』だと言わなければならない」