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アフリカで、「身近な隣人」が暴力の担い手になる時 

アフリカ@世界 更新日: 公開日:

大統領選が大惨事に

最初に1枚の写真を見ていただきたい。角材や斧(おの)を振り上げた若者たちが集まり、撮影者の私に向かって興奮した表情で大声を発している。

これは2007年12月にケニアで実施された大統領選挙の後、首都ナイロビのキベラ・スラムで起きた騒乱の様子を私が撮影した写真である。外国人ジャーナリストの私が彼らに暴力を振るわれることはなかったが、彼らは撮影が終わると暴徒と化し、夜通し家屋の破壊や住民の襲撃を繰り返した。身の危険を感じた私は一度スラムから脱出し、翌朝スラムに戻ってみると、焼け焦げた家屋が各所に点在していた。

この07年の大統領選は、再選を目指した現職のキバキ大統領(当時)と、野党オレンジ民主運動ODMのオディンガ氏の事実上の一騎打ちであった。

選管はキバキ氏の当選を発表したが、開票作業の最中からキバキ陣営の組織的不正をうかがわせる数々の疑惑が浮上した。このためナイロビのキベラ・スラムやケニア西部のリフトバレー州では、開票結果に不満を抱いたオディンガ支持者によるキバキ支持者の襲撃が発生し、キバキ支持者による報復も激化した。

一連の集団暴力は、複数の政治指導者によって組織的に計画された疑いが指摘されてきたが、真相は今なお判然としない。結局、全土で1000人以上が死亡する大惨事に発展し、60万人以上が襲撃を逃れて国内避難民になった。

そのケニアで10月26日、大統領選挙が行われる。ケニアでは8月8日に大統領選挙の投票があり、現職のケニヤッタ大統領が再選を決めたが、野党候補のオディンガ氏が選挙の無効を求めて提訴したところ、最高裁はオディンガ氏の訴えを認め、選挙のやり直しを命じたのである。本稿がウェブ上に公開される頃は激しい選挙戦の真っ最中だ。

13年の前回大統領選は、なんとか平和裏のうちに終わったが、人々の間には07年の前々回大統領選後の大惨事の記憶が生々しく残っているため、ケニア社会は大統領選を迎えるたびに緊張を強いられる。
なぜなら、07年の選挙後の集団暴力の担い手が、軍や武装勢力のような組織化された軍事集団ではなく、角材や斧など身の回りの品で武装した一般市民だったからだ。おそらくは国民の1%にも満たない、ごく一部の者が暴力に加担したに過ぎないとはいえ、「身近な隣人」が突如として集団暴力の担い手に豹変する現象には、武装組織や犯罪集団による暴力とは別の怖さがある。

おとなしそうな人々が虐殺に

サブサハラ・アフリカでは、しばしばこのような「身の回りの品で武装した市民」が加害者となる集団暴力が発生してきた。その最も悪名高い事例は、1994年にルワンダで少なくとも80万人が殺害された「ルワンダ大虐殺」である。この虐殺は当時のルワンダの政権、軍、過激派組織によって綿密に計画されたものではあったが、大勢の一般市民が斧やナタを手に虐殺に加担したことが世界を驚かせた。

ルワンダ大虐殺の10年後にルワンダを訪れ、かつて虐殺に加わった男性を何人か取材したことがある。その時に強く印象に残ったことの一つは、粗暴な雰囲気を漂わせている人は皆無であり、どちらかと言えばおとなしい感じの人が多いことであった。みな、農民や自営業者といった普通の人であり、日常生活で個別に接している限り、「なぜこの人が武器を手に集団による虐殺に加担したのだろう?」と首をかしげたくなる人ばかりであった。

なぜ、普段はおとなしそうな個人が集団暴力の担い手になり得るのか?疑問を解くカギは、門外漢である心理学の世界にあった。

心理学の研究成果によれば、そもそも人間には、集団になると一人の時よりも極端な意見を口にしたり、極端な行動に走ったりする習性が備わっているそうだ。こうした人間の習性を、心理学の世界では「集団極性化」と称しており、人間の行動を理解するうえで、きわめて重要な概念なのだという。

人間の行動が集団になると先鋭化してしまう理由として、「集団では責任が分散され、失敗しても個々の責任は分散される」「集団の中では、声の大きい人物の主張に傾く」「人間は誰でも自分の能力を他人に認めさせたいとの欲求があり、他人の前ではリスクの高い選択をしてでも成功しようと考える」といったことが考えられるという。

2007年のケニアの大統領選後の集団暴力は、キバキ大統領の出身民族キクユ人と、野党候補オディンガ氏の出身民族ルオ人の対立という構図であった。

アフリカの国々は植民地時代に宗主国によって設定された境界線を引き継ぐ形で独立したため、国内に多数の民族が暮らしている。このためアフリカで市民参加型の集団暴力が発生する際には、人々が「民族」を単位に凝集するケースが多い。民族という同質性の高い集団の中に、他の民族に対する暴力を扇動する声の大きな人物が現れると、そこに集団極性化の原理が働き、普段は穏健な人の中から集団暴力への参加者が出てくるのである。

ネット空間でも同じ問題が

集団極性化の概念を頭において今の国際社会を観察してみると、「普通の市民による集団暴力」が、決してアフリカだけの問題ではないことに気づく。近年、日本国内でしばしば発生しているヘイトスピーチ・デモや、トランプ政権誕生後に米国で活発化の兆しがある白人至上主義者の街頭活動などに、私はアフリカの集団暴力と同質の人間心理を感じている。

これら先進社会の現象には、言うまでもなくインターネットの発達が密接にかかわっている。マスメディアという「権威」から個人に向けて一方的に情報が提供されていた昔とは異なり、インターネット空間における情報の流れは、双方向かつ多方向である。その結果、自分にとって好ましく都合良い情報ばかりを選択し、同じような思想や嗜好の持ち主だけでつながることが容易になった。こうして社会全体から見ればごく少数の極端な意見の持ち主であっても、インターネット空間では一定規模の集団の形成が可能になっている。

このネット上の集団は、そもそも思想や嗜好が似ている者の集まりであるため、集団極性化の原理が強烈に作用する。メンバー各人の間に「集団内で認められたい」との心理が暗黙裡に働き、言動や行動はどんどん先鋭化する。匿名で責任が分散されているため、無責任な発言を安心して口にできる。

こうして日常生活で接している限りは穏健で内気に見える人が、ネット上の集団の一員として先鋭化した主張を展開し、しばしば集団で街に繰り出しては異様な攻撃性を発揮する時代が到来した。

幸いにして警察力が強い先進社会では、斧やナタを手に街を練り歩くことは不可能なため、アフリカ社会のような大規模な物理的暴力が行使されることはない。だが、我々は、極端な意見が集約され、行動に移されやすいという点で、アフリカの人々と同じ時代を生きているのである。