第12回、トリップミュージアム。
半年にわたり書いてきたこの連載も、とりあえず今回で区切りとなる。思い出せば始まりは、アジアの混沌「香港」からのスタートであった。文化の入り交じった奥の深い土地のような印象がある香港も、歴史的にひもとけば、経済の中心、もっと言ってしまえば金融の中心であり続けたために今なお栄えている。イギリスから中国に返還された後も、その形は色濃く続いている。
そして今、半年が経ち、最後のトリップミュージアムはここスウェーデンのショーン島にある小さな漁港で文章を書いている。
外にはモコモコとした岩肌と、湖のように穏やかな水を湛えたスカンジナビアの海が目の前に広がっている。とても静かである。
まさしく、「しーん……」という音がする。
秋だというのに気温もすでに9℃。この土地はすぐに冬がやってくる。夏には白夜、冬は太陽が上に昇らず横移動して夕方4時頃には沈んでしまう。ここはそんな不思議な空間であり、さらにこの壮大な景色を前にすれば、自分がどこか全く違う他の世界に来てしまっているのではないかと不思議な感覚に陥ってしまう。
緊張感があるこの空気は、12年前まで住んでいたドイツ時代を思い出させてくれる。
秋のこのヨーロッパの空気と匂いが、私はとてつもなく好きだ。というのも、初めてヨーロッパを訪ねた時も、そして初めてドイツで生活を始めた時も季節は秋の始まりの頃だったからである。この匂いを嗅ぐと、その当時の記憶が蘇る。期待と不安、そして何も知らない新しい世界に挑戦する自分自身に奮い立ったものである。
さて、そんなこの場所に、なぜ自分が来ているのかというと、この小さな島の片隅に、ノルディスカ アクバル美術館「Nordiska Akvarell museet」という、水彩をメインとした新しい美術館が建っている。スウェーデンの第二の都市、ヨーテボリから車で1時間ちょい走ったこの場所で、日本人の自然観をテーマにしたグループ展が開催される。
その作品の展示のために滞在しているのである。
これだけの大自然の中で、自然に関する作品を作るということもなにか不思議な感覚ではあるのだが、確かに乾燥したこの土地の自然と、我々日本人が意識する自然というものは根本的な違いがあるような気もする。
そういえば、ドイツ時代に一度私はスカンジナビア半島を訪ねたことがある。電車と船を乗り継いで、ノルウェーのオスロに向かった。
普通に、オスロのムンク美術館を訪ねたり、恐ろしく高いが美味しいサーモンを食べたりしていたのだが、何よりも一番印象に残っているのは、オスロよりさらに西にあるベルゲンという街を訪れ、そこからフィヨルドを見に行った時の景色であった。
電車で移動をしていたのだが、その車窓から見る景色の凄さ、もちろん春とはいえ雪が残るその景色。海なのか湖なのか分からぬ鏡面になったその場所に、小さい島がポツンと浮かび、そこに一軒の小屋、というか家が建っていてあかりがついている。
あんなところに人が住んでいるのか?
他には家も何もない、それよりどーやってあそこに行くのか、とにかく漫画やアニメの世界以外では考えられないような風景。そして水の透明度。ゴミなど何も落ちていない、ずーっと広がる透き通った景色。
ベルゲンについてからは、バスと船を乗り継ぎフィヨルドの世界に入っていくのだが、チョロチョロと見える滝の長さが1キロだ、とか、湖のように透明で静まり返った海の水深が数百メートルだ、とか、そんな話を聞いて回っているうちに、なんとなく、感覚的にわかってきたことがあった。ずっと気になっていたのだが、日本の自然の中にはない感覚である。
それが確実だと確信したのは、2日目のバス移動の時に、ある森の中でトイレ休憩をした時のことであった。
バスに乗っている人数も少なかったのだが、その休憩場所に止まっている車も我々だけで、深い森の中の小さなレストランにいるのは、我々だけであった。皆がレストランに入っていくのを見て、自分は一人、道を横切り森の中に入ってみることにした。
ノルウェーの森である。
しかしこの森は何か変なのである。
それはなんなのかというと、森に生き物の気配が全くしないのだ。
日本であれば、何かしらの生き物や虫、風なのか息吹なのか、人間も含め何かしらの気配があるのである。しかしこの森には全くもってなんの気配もしないのだ。私は確信した。ここに妖精がいないわけがないのである。そう、間違いなく妖精はいるのだ。
気配のない、妖精の気配。なんとなく何者かの視線を感じながら私は急いでレストランへと戻っていった。
あの感覚、妖精がいることへの不安と安心。トロールと言われる妖怪とも妖精とも取れる生き物が、なぜこの国や土地で語り継がれるのか。我々にとって身近なのは「ムーミン」であるが、ムーミンもスナフキンも、あそこにいなければ困る雰囲気が北欧の森には存在するのである。
それが私の北欧での記憶である。
ムーミンついでに話はそれてしまうが、日本の自然の中のトロールを描いたのが宮崎駿氏の「トトロ」であり、伝説的であり、かなり現在まで存在していたと言われている妖怪が「河童」という存在である。
私の父親は、真剣に「河童」を撮影したいと自動シャッターの装置を発明し、その技術で昆虫の飛翔の撮影に成功した。また私の友人のアーティスト、遠藤一郎は、自らが河童になり「河童」が世の中からいなくなった実態を自ら体感し、2年に及ぶ河童の生活に一度、区切りをつけた。
二人ともアホである。
しかし、このアホともバカとも取れる勢いと勘違い、そして熱い情熱がないと新しいものは生まれない。ましてや世界を真剣に救おうとなると、それは本物の馬鹿者にしか実現できないものである。
宗教学者の中沢新一さんが、あるインタビューで言っていたことがある。世の中が平和な時代、いわゆる「コスモス」の時代には、アーティストという存在は作品を作り、売っていればよかった。しかし、いつの時代も「コスモス」から「カオス」に向かう「カオスモス」の時代があり、その時代が今であると。日本は戦前にその「コスモス」から戦争という「カオス」に向かう「カオスモス」を体験しており、また江戸末期から明治維新も同じであった。
その「カオスモス」の時代にアーティストとは、どんな存在であるべきなのであろうか。
平和に作品制作をしていられる時代はよかった。好きな表現をし、それを売り、生きていくことは幸せなことであるし、夢のような生活である。しかしアーティストに与えられた使命とは、時代によって当然のように変わらなくてはならない。何故ならば時代の先端に立つのがアーティストの役割であり、進む道を切り開くのも、アーティストの一つの存在意義であるからである。
勘違いしてはいけないのは、「新しいもの」を創るのはアーティストの役割ではない。新しいものは、出来た時にはすでに古いものである。それは車のデザインのように「未来」という妄想に囚われた時におかしなことになってしまうものである。
ならば何をもって「新しい」というのだろう。
それは「古くならない」ものである。古くならないものとは、それは時代を超えた「永遠」なものでなくてはならないのだ。
古くならない、永遠のものに、言い伝え、伝説や物語がある。
先に書いた河童話。
遠藤一郎は、「人間で訴え続けてダメならば、もう妖怪になって訴えるしかない!」と時代の変化と危険性を吠えたという。スカンジナビアのトロールや、日本に語り継がれる妖怪たちの存在は、時代が「カオスモス」であればあるほど色濃く現れてくる。彼らはあの世とこの世の間の世界で生きており、我々にいろいろな警告を伝えるのだ。
では「カオス」とはなんなのだろう。中沢氏は「戦争」をその一つに挙げているが、私にしてみればすでに、2011年の原発事故から始まっていると思う。
我々現代日本人の民主制やら資本主義とやらは、第2次世界大戦後に植え付けられたものがほとんどである。戦後72年だなんだと言われるが、それは歴史上起きた戦争の一部に過ぎない。
我々がしっかりと見据えなくてはいけないのは、「江戸」という時代から「明治」という時代に移行した、あの150年前の出来事であり、近代文明というまやかしの植民地計画である。
来年2018年をもって戊辰戦争150年を迎える。
その明治という時代から数えて150年にして、また戦争を起こしたいと考えている連中がいる。それは、朝鮮戦争や日露戦争、第1次、第2次世界大戦を望んだ連中であり、それにより富を得てきた連中である。戦後72年、戦争がなかった、などと言っているのは、植民地化させた国が、日本に戦争をさせない為に作り上げた都合の良い平和憲法というもののおかげであり、またそれは彼らにとって、そのせいで戦争をさせたくてもできなくなってしまった、というジレンマの産物なのである。
そして今、必死でその平和憲法とやらを廃止させたくてしょうがない連中がいる。戦争を通して金儲けをやりたくてしょうがない者たちだ。歴史的にみても、戦争が偶然起きたことはない。
今はまだ「カオスモス」の状態である。そんな世にはいろいろな妖怪たちが現れる。トロールもそうだと言われるが、決して彼らは人間にとって都合が良いものたちばかりではない。誘惑をしそそのかし、我々の失敗をあざ笑って生きているのであろう。
しかし彼らが我々に伝えようとしていることもたくさんある。それは自然たちの声を聞き、学び、そして共に生きること。そしてもうひとつ大切なことは、あちらの世界とこちらの世界が繋がっており、それを信じることにより目に見えないものに対しての意識を覚醒させ、物質的な世界から我々を救おうとすることである。
私たちはアーティストである。
目に見えることだけを信じて生きてはいない。
真実を見つめなくてはならない。
言ってしまえば、我々アーティストも妖怪の一種なのかもしれない。
遠藤一郎がそれを身を以て教えてくれた。
「カオスモス」の時代にこそアーティスト、そして妖怪たちが必要なのだ。
自分の美の追求、アートの文脈、それも大切である。
しかし、まずはこのグローバルというまやかしの言葉とともに歪められた我々の歴史、生活、その他ありとあらゆる全てを見つめ直し、このまま戦争という「カオス」の時代に突入させない為の知恵と勇気を持ち、未来のための先駆けにならなくてはならない。
そして最後の最後に必要なのは
「馬鹿者」と「アホ野郎」であり、
あの世とこの世を繋ぐ妖怪のようなアーティスト、
時代を貫く意思とエネルギー、
「愛」を叫ぶやつなのである。
短い間でしたが、
拝覧いただきありがとうございました。
今回をもってトリップミュージアムは終了いたします。
また新しいシリーズでお会い致しましょう。