出身地のとっぴな慣習や奇妙さを自覚できるのは、自らの文化から離れ、どこか旅に出たときぐらいだ。これこそ旅が啓示的たる理由の一つだろう。いわゆる「欧米」文化のことを、どんどん冷ややかな、往々にして困惑した目で見るようになっている私だが、日本側の視点から見たときなど、それは特に顕著である。
たとえばキリスト教徒が先月、厳密にいえば16日の日曜日に祝ったイースター(復活祭)。日付は毎年変わるが、春分後の最初の満月の日の次に来る日曜日、とされている。これ自体がおかしな話で、キリストの誕生を祝う日は毎年決まっているのだから、彼の復活の日も毎年同じじゃだめなんだろうか?
とはいえ、かのお方の2000年前の受難がいま、伝統的作法によりたたえられていることを思うと、暦の上の矛盾などささやかなものだ。タマゴ形チョコレートを買い、交換して、食べる。大きさもさまざま、中がスカスカだったり、ぎっしりだったり、タマゴに似せた色味のフォンダンや、さらに小さなチョコがいくつも出てきたり。私にもし、イースター的体験があったとしたら、ランチにタマゴ形チョコレートを食べすぎて気分が悪くなったことだろうか。
もちろん、イースターを祝うツールがずっとタマゴ形チョコレートだったわけではない。もともとは、ニワトリのタマゴをとりどりの色や模様で彩っていた。誕生と再生の象徴であり、時節をとらえてもいたのだ。ただ、どんなに美しく着色されていようとも、昨今のイースターで本物のタマゴを差し出されたら、若者はさぞ盛大に立腹するだろう(私だってそうする)。しかし、この本物のタマゴこそ、最も素晴らしい食材ではないだろうか。そう、誰もがタマゴげるほどに……(このギャグは撤回しません)。
タマゴの魔法
去年のクリスマスから年明けを、フランスのプロヴァンスで過ごしたときのこと。12人の空腹なる人々を抱えていた私は、小さな黒トリュフを購入したのだが、100ユーロもしながらピンポン玉よりわずかに大きいちっぽけなキノコでは、どうしたって人数に見合わない。いや、十分だったかも? ともかく私は20個かそこらのタマゴをビニール袋に入れ、そこにあのトリュフも加えて、袋をキッチンの棚に一日鎮座させておいた。
殻の通気性に富んだタマゴと、えもいわれぬ芳香を放つトリュフ、ともに過ごした数時間の間に、中身はまるで奇跡のように香りづけされるわけだ。
翌日、タマゴをボウルに割り入れ、薄くスライスしたトリュフを加えて、もうひと寝かせし、余すことなく抽出する。威風堂々完成したのが、トリュフ・オムレツだ。
トリュフをトリュフたらしめる、キノコや木の実、厩舎、林床といっためくるめく香りの調合、その豊かさよ。一人の人間がこれほど多くの恵みをもたらしたのは、5000人の民に2匹の魚と5個のパンを与えたキリスト以来初めてではないだろうか。
しかし私はこの春、日本でタマゴの究極の形に遭遇してしまった。調理されたタマゴの純粋なる理想形であり、これまで食べた中でも一番おいしかったそれは温泉タマゴ、それも別府で食べたものだ。
これまでの私といえば、子供だましだとばかりに温泉タマゴを敬遠してきた。地熱が発する蒸気を料理に利用するとは確かに楽しげだが、味にそれほどよい作用をもたらすとは思えなかったのだ。硫黄を含むタマゴがさらに硫黄に蒸されるなんて、食欲をそそるものではない……はずだった。なんて間違っていたのだろう。硫黄の煙がかけたタマゴの魔法のもと、黄身にうまみがつまったいかにもタマゴらしいおいしさが立ち現れ、私のタマゴ観もひと皮むけた。
愛するチョコレートと同じくらい、別府の温泉タマゴが彩ってくれたイースターとなった。
(訳・菴原みなと)