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「君の名は。」と「村上春樹」 その共通性を考える

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新海誠監督

村上春樹特集の作業が一段落した10月初旬、ようやく「君の名は。」を見た。新海誠の作品は、これまでにいくつかの作品をDVDで鑑賞したが、「ファン」というほどではない。「若い男女の出会いと別れを、美しい風景と音楽に乗せてセンチメンタルに綴った作品」という程度の印象しかなかった。

しかし、「君の名は。」には、正直圧倒された。エンターティンメントとしての完成度が異様なまでに高いのだ。物語の中盤で作品世界の全容が示された時の驚愕と喪失感、終盤に向けて様々な伏線が一気に収斂していく際の興奮と爽快感、共に半端ではない。

それほど前宣伝があったわけでもないこの作品が、またたく間に興行収入100億円以上の大ヒットとなったのはやはり、現代日本人の「心のニーズ」に応える強い力を持っていたからだろう。

そして、この映画を見ている最中からとても気になったのが、至る所で村上作品との共通性が感じられたことだ。当初は、「特集の仕事を終えたばかりなので、何でも村上春樹っぽく見えるんじゃないの?」などと自分で突っ込みを入れていたが、ネットで検索してみて分かったのは、「実は新海誠は、村上春樹の大ファン」ということだった。

新海がかつてテレビに出演した際に、「僕は村上春樹さんが凄く好きで、大学時代から好きだったんですけど、やっぱり一番最初に読んだのが『ノルウェイの森』で」「作品にも言葉遣いもすごく影響が出ちゃってますし、(好きな作家を)一人挙げるとしたら村上さんですね」などと発言しているのを見ても、そののめり込みぶりは伝わってくる。

では「君の名は。」は、どこでどのように村上作品とつながっているのだろうか。

「この世と」「あの世」が接する場で

「君の名は。」のヒロイン三葉(みつは)は、山深い町に住む女子高校生だ。地元神社で代々続く巫女の家系の跡継ぎでもあり、半ば嫌々ながら様々な神事を行っている。

実は、三葉の家系の女性は、「思春期の一時期だけ、夢を通じて時間と空間を超え、村の外部の世界にいる人と意識が入れ替わる」という不思議な資質を持っている。その資質が三葉に現れ、東京の男子高校生瀧(たき)と入れ替わるところから、物語は始まる。

一方、村上作品の大きな特徴も「現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在しており、何かのきっかけで相互を自由に行き来することができる」「自己と他者の区別が時としてあいまいになり、自分の中に他者を見いだしたり、他者の中に自分を見いだしたりする」という世界観にある。
特集記事でも触れたように、こうした感性は日本人のメンタリティーの中に元来あったもので、「源氏物語」や「雨月物語」など、明治期以前の日本の伝統文学でも脈々と受け継がれてきた。

「君の名は。」では、三葉が自らの口で米を嚙み、発酵させることで、神に捧げる酒を造る神事が丁寧に描かれる。さらに、その酒を神社のご神体に捧げる際には、「この世とあの世の境界」とされる小さな水の流れを越える。瀧は、ご神体の前で三葉の醸した酒を口にすることで、再び三葉との「入れ替わり」を果たす。

三葉と瀧が、時間と空間を超えて出会うのも、「この世」と「あの世」が交じり合う時間とされる「黄昏時」だ。

村上の大長編「1Q84」の二人の主人公、青豆と天吾も、雷鳴が鳴り響くのに稲光は見えない夜、新興宗教の教祖とその娘である巫女的な女性の力により、空間を超えて不思議な形で結びつけられる。

「あの世」は「この世」と隔絶した場所ではなく、むしろ地続きであり、本当に重要な出来事は、「この世」と「あの世」が接する場で起きる――。

二つの物語の核心には、そうした世界観にリアリティを見いだす感性がある。それを「日本の、伝統的かつ宗教的な感性」と呼んでもいいだろう。

「現実の災厄」との接点

なぜ今、そうした感性を持った作品が、人々から求められるのか。それは20世紀末から日本をたびたび襲う「災厄」を抜きには考えられないだろう。

「君の名は。」の劇中では、三葉の家系が代々有している「入れ替わり」の資質は、実はかつて町を襲った大天災が再びやってきた時に、人々を救うために育まれた力ではないか、ということが示唆される。思春期の男女関係が中心だった物語は後半、「町全体を襲う災厄にどう立ち向かうか」というテーマへと、一気にスケールアップする。

この「災厄」が、東日本大震災のメタファーであることは明らかだ。新海自身、ウェブ上のインタビュー記事で、「君の名は。」について、「震災以降でなければありえなかった作品」と明言している。

村上春樹の長編作品と世界の出来事

「2011年以降、僕も含めて、多くの日本人が『明日は自分たちの番かもしれない』あるいは『なぜ(被災したのは)自分たちじゃなかったんだろう』という思考のベースに切り替わっていった」「2011年を境にして、僕たちは以前と違う人間になっている。変化した受け手に向けて、同じく変化したつくり手がつくる物語としては、(東日本大震災は)決して不自然なモチーフではない」とも話す。

「君の名は。」は、震災が私たちの心に与えた影響に、自然な形で寄り添う作品を目指した。そのことで、従来の新海作品とは比較にならないほど、多くの観客に訴える力を獲得したのではないだろうか。

「個人」と「世界」をつなぐもの

村上作品もまた、1995年に日本を襲った「阪神淡路大震災」と「オウム真理教事件」という二つの災厄を機に、大きく変容する。

特集記事でも触れたように、村上は97年から98年にかけて、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした「アンダーグラウンド」と、オウムの信者・元信者を取材した「約束された場所で」を相次いで発表した。それ以降、村上は「(教祖の)麻原が信者に与えた悪(あ)しき物語に対抗する力を持った物語を書いていかなければ」と繰り返し発言している。

また、2000年には、阪神淡路大震災から一カ月後の人々を描いた連作短編集「神の子どもたちはみな踊る」を発表している。

これ以降の村上作品で顕著なのは、登場人物の「この世からあの世」への行き来が、個人レベルの旅に留まらず、「世の中全体に災厄をもたらすかもしれない存在」との対決へとつながっていることだ。

「海辺のカフカ」では、ナカタさんという不思議な老人に導かれた長距離トラックの運転手・星野青年が、現実と非現実の間をつなぐ「入り口の石」を通り抜けようとする「邪悪なもの」を抹殺する。

また、「1Q84」では、青豆と天吾の精神的な結びつきが、「リトルピープル」という超自然的な存在によって乱された「世界の善悪のバランス」を回復させる力となっていく。「君の名は。」でも、三葉と瀧の個人的な結びつきが、人々を災厄から救う鍵となる。両者の物語構造は、極めてよく似ている。

新海は、村上作品について「(『アンダーグラウンド』は)いろんなことを感じる読み物ですが、僕は、そのノンフィクションではなく、それ以降に結実していった小説の方が好きです」と話す。クリエーターとしては、現実そのものについて語ったり意見を述べたりするよりも「現実をどう物語へと変換していくか」の方に関心がある、ということだろう。それは村上自身も同じ思いのはずだ。

過酷な現実を非現実との狭間で昇華させることで、傷ついた人々に生きる力を与える――。それは、物語に対して社会が求める基本的なニーズの一つでもある。

村上と新海は共に、日本人の根っこにある伝統的な感性に訴えかけることで、そうした「物語へのニーズ」に、真摯に応えようとしているのではないだろうか。