右手でつないだデイナ(39)の手は細かく震えていた。左手をつないだルビー(57)は、ずっとうつむいたままだった。デイナは長く統合失調症、ルビーはそううつ病の患者だった。米国・ニューヨーク市中心部から地下鉄を乗り継いで約30分。れんが造りのアパートが並ぶ住宅街にあるメイモナイヅ総合病院の精神科病棟は、芸術療法に熱心な病院として知られている。「ダンスセラピー」もその一つ。5月上旬、私はその取材で病院を訪れた。
約30年勤めるダンスセラピストのトリシャ・カペロ(59)は「取材するなら是非、体験してみては」と勧めてくれた。正直、戸惑った。私はダンスが苦手だ。だが、「説明を聞くより、体験の方が伝わるから」と言う。
当日、私は3階のエレベーターホール前に集まった患者や職員ら10人の輪に加わった。トリシャがCDをつけ、セラピーが始まった。
90年代に流行した豪州バンド、サベージガーデンの緩やかな曲に合わせ、10人は体を左右に揺らした。つないだ両手を高く挙げ、ゆっくりと降ろす。2曲目は米国の女性歌手、マライア・キャリーのアップテンポな曲。今度は2人1組で向かい合い、小刻みに肩を振るわせた。
再び輪になって手をつないだとき、デイナの手の震えが止まっているのに気づいた。顔を上げたルビーと視線があうと、にかっと笑った。青く澄んだ瞳が輝き、思わず私も笑顔を返した。
ダンスが持つ力
踊りを通じて、病気や障害に伴う不安や痛みを和らげたり、社会に適合する力を養ったりするのがダンスセラピーだ。
約70年前、モダンダンサーのマリアン・チェイスがワシントンの病院で患者にダンスを教えた当初、それは「療法」ではなく「コミュニケーションの手段」だった。だが、病院でダンスの癒やし効果の可能性に気づいたチェイスは、自ら精神医学を学び、ダンスを医療現場で扱う挑戦を始めた。
ダンスは、メンタルヘルスの分野から次第に広がりを見せ、80年代には小児まひやパーキンソン病の患者に、90年代に入ると闘病する癌患者の不安を和らげる療法に採り入れる動きも出てきた。
言葉にできない気持ちを体で表現すること。人とのつながりを感じること。ダンスセラピーは、ダンスが持つ力をフル活用する。一方で、その手法はセラピストによって形を変える。「抱える問題が異なる患者にその都度対処する。単純なマニュアル化は難しい」とセラピストたちは口をそろえる。
聞いた悩みをダンスで表現
ニューヨーク郊外に私設スタジオを持つスーザン・トルトラ(54)は、発達障害を持つ子どもたちや乳幼児にもセラピーを実施する。「言葉を交わさない幼児こそ、気持ちを体で表し、他人が体で発する表現を理解する。ダンスに必要な要素そのものだ」と話す。一般的に、ダンスは音楽など外部のリズムに合わせるが、彼女は音楽を用いないことも多い。
例えば、長い布を持って追いかけっこをさせる。誰かの動きがおもしろいと思ってマネしたり、お互いにぶつからないように気をつけたり。「他人を思いやり、他者と関わる楽しさを知ることで、症状は和らげられる」と話す。
ニューヨーク市内の大学に勤務するセラピストのジョーン・ウィティッグ(54)は、摂食障害などの患者同士が悩みを打ち明け合い、聞いた悩みを互いにダンスで表現して見せるという手法を使う。悩みを他人の動きに置き換えることで客観視し、折り合いをつけるのを助けるという。「摂食障害を患う人にとって、誰かに理解されたと感じることは何より大事だ」と彼女は話す。ダンスはその媒介になるという。
日本にも実践例
現在、米国ダンスセラピー協会には989人の公認セラピストがいる。会長のシャロン・グッディル(57)は「広い米国で1000人足らずでは、まだまだ足りない」と話す。保険対象になりにくいなど普及への課題は多いが、「そもそも体を使うセラピーを怪しい、怖いと思う人も多い。もっと理解を促したい」と話す。
マリアン・チェイス以後、試行錯誤で抽出されたダンスセラピーの理論は、世界各国へも広がった。一方で、医科学的な根拠が乏しいとする指摘もつきまとう。
日本にも、一部の病院でダンスセラピーを実施している。92年に50人弱で設立された日本ダンスセラピー協会の会員はいま約250人。米国に倣って認定資格制度や研修制度を整え、徐々に普及しつつあるが、まだ認知度は低い。
精神神経科のある医師は「踊ることでストレスを発散できたり、達成感や安心感を得られたりして健康促進につながることがあるのは事実だろう。ただ、これだけを取り出した有効性は示せない以上、医師の治療と離れたところでの施術には慎重を要する」と話している。(文中敬称略)