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メンタルヘルス

[Part1]心の病を公表、ストレス減へ企業本腰




ジョン・ビンズ/photo:Sako Masanori

世界的な金融街、ロンドンのシティー。その一角にある大手会計事務所デロイトのオフィスを昨年末、訪ねた。前年まで共同経営者だったジョン・ビンズ(57)に会うためだ。


「うつなんて、私には関係ないことだと思っていた。それまで十数年、病気で休んだこともなかったからね」


ビンズはそう言って過去を振り返った。事務所トップの共同経営者に就いて6年目の2006年秋、彼は「重いうつ病」と診断され、3カ月間休職した。


今思えば、その2年ほど前から徐々にうつの症状が進んでいたという。ささいなことが不安でたまらなくなった。左腕のほくろが皮膚がんになるのではと気になり、医者にかかった。「ほくろは大丈夫。それよりうつではないか」と精神科の受診を勧められた。そんなはずはない、と働き続け、症状は悪化した。打ち合わせに誰を呼ぶか、簡単な決断も悩みすぎてできなくなり、部下に心配された。


06年秋のある夜、同僚の共同経営者3人にメールを書いた。「つらい。明日は休みます」。3、4時間悩んで送信ボタンを押した後、猛烈な不安に襲われた。いったん「弱い人間」とみなされれば、事務所でやっていけなくなる。自分のキャリアはもう終わりだ――。


精神科医を受診し、3週間入院した。自分には生きる価値がないと思えた。


そんな状態から、同僚の共同経営者の一人が救い出してくれた。休職から3カ月後、メールで「ランチでもどうだ」と誘われた。「待ってるから。戻ってこいよ」と言ってくれた。簡単な仕事から徐々に復帰し、半年後には元通り共同経営者の仕事をこなせるようになった。


「自分は終わりかと思っていたが、そうではなかった。心を病んだ人を切り捨てて新しい人を雇えばコストがかかる。休んだ人を支えるのは、ビジネスとしても素晴らしい判断だ」とビンズは強調する。




タイム・トゥ・チェンジ

彼が救われたのは、ランチに誘ってくれた同僚のおかげだ。だが、心を病んだ人にどう接していいか分からず、避ける同僚も多かったという。彼自身、心の苦しみを誰にも相談できず、一人で抱え込んで症状を悪化させた。「心の病について気楽に話せない文化がある。それを変えたい」。13年に経営者を引退し、今はメンタルヘルス担当の顧問を務めるビンズはそう強調する。


心の病は本人を苦しめるだけでなく、経済にも影響する。そんな議論が06年、英国で起こった。経済学者で上院議員でもあるリチャード・レイヤードが「うつと不安障害による経済損失が年間120億ポンド(約2兆円)に上る」との報告書を公表した。政府は、3000人を超える心理士を新たに養成するなど対策に乗り出す。


09年には、政府も出資し支援団体が主導する「タイム・トゥ・チェンジ」(変わるときだ)というキャンペーンが発足。賛同する企業が相次いだ。


キャンペーンに加わった生活用品大手P&G。ロンドン郊外にある英国本社を訪ねた。出迎えてくれた人事部長のリチャード・セビルはこう強調した。「従業員のパフォーマンスを維持するために、心も体も健康であることが重要だ。そのためにはまず、心の健康についてオープンに語れる雰囲気を作りたい」


セビルによると昨年秋、社員食堂につながるガラス張りの廊下の壁面に縦80センチ、横60センチのポスター6枚を貼り出した。それぞれに大きな顔写真が印刷されていて、メッセージが添えられているという。たとえばこんな具合だ。


「15年前、私は不安障害を経験した。苦しかったが、その経験のおかげでより強い人間になることができた」




ドイツで燃え尽き症候群急増


顔写真の主は、同社の幹部や従業員6人。そのうち4人は本人が過去に心の病に苦しみ、残りの2人は家族や同僚が患ったという人たちだ。人事部長のセビルは言う。「それぞれの職場で尊敬されている6人にお願いした。心の病は克服できる。だから率直に語ろう。そのメッセージを最もパワフルに伝えられるのは、同じ職場で働く顔見知りの同僚だ」


そのポスターを見せてほしいとお願いしたが、「外部の人には見せられない」と断られた。心の病を完全に「オープン」にするのは簡単ではないようだ。


心の病はドイツでも大きな問題になっている。健康保険組合によると、「バーンアウト(燃え尽き症候群)」による病気休暇が04年は組合員1000人あたり4.6日だったが、11年は86.9日に急増した。


自動車大手フォルクスワーゲンは11年末、労働組合との間で「メール停止労使協定」を結んだ。対象は事務職約1000人。夕方6時15分から朝7時まで、会社から貸与されているスマートフォンに電子メールが届かないようにした。


職場での健康づくりに取り組む労働健康研究所の所長、ディルク・ビンデムートは「ストレスを減らすために情報の量を制限することは有効だ」と評価する。


労働大臣、アンドレア・ナーレスも昨年8月、現地紙のインタビューに、労働者のストレスを取り除くことを企業に義務づける基本法「アンチ・ストレス法」の制定を目指す考えを表明、政府の研究機関に効果のある対策の検討を指示した。


(左古将規)

(文中敬称略)

(次ページへ続く)


パワーエリートと心の病

大手会計事務所の共同経営者だったジョン・ビンズさんは重いうつ病を患った経験から、「私に限って」と心の病に向き合おうとしない人に警句を発している(撮影:左古将規、機材提供:BS朝日「いま世界は」)



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