3月、東京・恵比寿のライブホール。上海やロンドン、モスクワなど世界28の都市を回るワールドツアーの皮切りとなる公演で、900人の観客を前にしたMIYAVI(36)がいた。引き抜いた日本刀のように高く掲げたエレキギターを超速で弾きながら、流れるような英語で歌い上げる。180センチを超える長身に細身のパンツ。欧米で定着した「サムライ・ギタリスト」という異名がしっくりくる姿と、曲の間に繰り出す関西弁のしゃべりとのギャップに、インタビューで語った言葉が、よみがえった。「自分には何もなかった。それが、何かを生み出す一番の原動力なんじゃないか」
「落ちるところまで落ちた」少年時代
MIYAVIには、音楽家としての自分を「ゼロからつくってきた」という意識がある。兵庫県内の町で育った子ども時代は、音楽とは無縁のサッカー少年だった。小学2年で会社員の父が仕事のかたわらコーチをつとめる地元チームに入り、のめりこむ。試合を組み立てるのが得意なキャプテン。めきめきと頭角を現し、「プロのサッカー選手になる」。当たり前に、そう思うようになった。
中学入学と同時に、Jリーグ「セレッソ大阪」のジュニアユースのテストに合格し、入団。ところが、片道1時間以上かかる練習場との往復に疲れ切り、ボールを追いかけるのが楽しくなくなっていく。学校の昼休みは眠るだけ。気づけば同級生の輪からも、サッカー仲間の輪からも外れていた。中学2年で右足の指を骨折した時、ほっとしている自分に気づいた。「付いていけなくなった」と退団。駅前にたむろし、仲間と悪さを繰り返す毎日を送るようになる。友達の家を泊まり歩き、1カ月以上家に帰らない。心に開いた穴を埋められず、落ちるところまで落ちていった。
ギターを手にしたのは、そんなころだ。不良仲間の「ノリ」で誰にも音楽経験がないのに「バンドでもやるか」。だが、初めて弦をはじいた時、MIYAVIには大きなスタジアムで弾く自分の姿が見えた。「この楽器が、再び自分を『ここじゃないどこか』に連れていってくれるんじゃないか」。進学した高校には半年もたたずに行かなくなったが、ギターからは離れなかった。
17歳の時、音楽を教えてくれていた2歳上の先輩が急死した。葬儀の後、急に「地元にいたくない」という思いが募った。財布とPHS、タバコだけを持って夜行バスに乗り、東京へ。バスに乗る前に電話した母の「気を付けて行きぃや」という声は忘れられない。サッカーをやめた時も、ぐれた時も、ただ黙っていてくれた母。「恵まれていたとも才能をもらったとも思わない。なにも与えてもらわなかったから、自分の足で道をつくることを学んだ」
すぐに資金が尽き、野宿もしたが、ライブハウスに入り浸るうち、あるビジュアル系バンドに入ることに。目を掛けられ、2004年には大手ユニバーサルミュージックからソロでメジャーデビューする。ど派手な化粧や衣装の「ビジュアル系新世代」として、熱狂的ファンがついた。社長の藤倉尚(50)は「当時から、視線の先に『世界のトップ』を見すえていた。その本気度は群を抜いていた」と振り返る。「自分の存在を世界に直接伝えようとデジタルやSNSでの発信にも、いち早く関心を持っていた」
日本人がギター弾く意味は何か
メジャーデビュー後、アジアや欧州で演奏する機会が増えると「日本人の自分が、西洋の楽器であるギターを弾く意味はなにか」と考えるようになった。たどりついたのが「三味線」。普通ならピックを使うエレキギターの弦を指で三味線のように激しくはじき、打楽器のようにボディーをたたくことで、重奏的な音を奏でられるのではないか。その発想が、世界に認められる独創的な「スラップ奏法」として実を結ぶ。
もう一つ、海外で痛感した壁が「英語」だった。「普段でも、エンターテインメントでも、人ってだいたいしゃべってるでしょ。それを英語でできないつらさはデカい」。25歳の時、活動を3カ月休止してロサンゼルスで移民に交ざって英語学校に。「音楽をやれる時間に、なんで自分は、こんな小学生レベルの英語やってんだ」と泣きながら机に向かった。あき時間には路上に出て、即興ライブで実践を重ねた。そんな縁でラスベガスで演奏した時、有名ダンサーから「サムライ・ギタリスト!」と紹介された。この呼び名が世界に広まり、MIYAVIの代名詞になる。
当時、所属レーベルでMIYAVIを担当していた嶋津央(38)は「鍛錬を積み重ねるストイックさは、アスリートに近い」と評する。毎日スタジオに行きひたすらギターと向き合い、トレーニングも欠かさない。ネイティブの人と共同生活し、日常会話にも英語を使う。「恵まれた環境に生まれたのではないコンプレックスが、彼をギラギラさせていた」という。
アンジーとの出会い、広がる活躍の場
国内外での音楽活動が安定してきた13年、思ってもいない転機が訪れた。渡辺謙らをハリウッドに紹介してきた演出家の奈良橋陽子に、ある映画への出演を持ちかけられたのだ。第2次大戦で捕虜となった元五輪選手の人生を描いたアンジェリーナ・ジョリー監督作品の「不屈の男 アンブロークン」。オファーされたのは、主人公の米兵を執拗(しつよう)に虐待する日本兵役だった。「カリスマ性があって素敵(すてき)な人」というジョリーの希望通りだと感じた奈良橋に、最初は「演技をしたこともないのに、そんなセンシティブな役なんて」と断るつもりだった。だが、来日したジョリーに「日米の戦争の勝敗をめぐる話ではない。どれだけ苦しめられても許せる、人間の強さの物語だ」と説得された。奈良橋は「言ったことが、すぐピーンと響く。心と感性が肉体につながっていて、彼自身がまさに楽器だった」と絶賛する。
ただ、作品は日本では、違った形で注目されることになる。「日本軍の捕虜虐待を強調していて反日的」などと問題となり、一時は上映も暗礁に乗り上げた。MIYAVIの父親が、もともとは韓国籍でのちに日本国籍を取得したルーツも、ネットで騒がれた。だが、落ち込むことはなかった。「意見があわないとすぐ『反日』と批判する。それが日本にとって、どれだけマイナスになっているか、わかっているのか。壁をつくりやすく、扉を閉じやすい。そんな国のためにできることがもっとあるかもしれない」
撮影後の14年に妻と幼い娘2人を連れてロサンゼルスに移住。活動の幅が広がった。パリ・コレクションでモデルデビューし、日本の人気漫画『BLEACH』の実写版にも出演が決まっている。「人をWow! ってワクワクさせる時、希望が生まれる」と思うから、音楽だけでなく自分のさまざまな可能性に挑み続ける。
昨年11月からは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使をつとめる。「親善大使なんてロックじゃない」と躊躇(ちゅうちょ)していたが、ジョリーの誘いで15年に訪ねた中東・レバノンの難民キャンプで、去り際までそばを離れなかった少年が「将来はロックスターになりたい」と言っていると聞き、気持ちが決まった。
自分も体一つで東京に、そしてアメリカに飛び込み、もがいてきた。だからこそ、人種も境遇も違う人たちが認めあい、一緒にやっていける世界を思う。楽曲「The Others」の歌詞には、そんな思いがあふれている。
国を名付けたのは誰? 国境をひいたのは誰? /俺たちがお金のために争ってる間に/誰かがお金を刷ってる/銃の代わりに俺たちはギターを弾く/高らかに歌い続けよう/それが俺たちの生きる道 /(中略)俺たちは皆それぞれ違う (文中敬称略)
■Profile
- 1981 2人きょうだいの長男として大阪市此花区に生まれる。本名は石原貴雅
- 1989 兵庫県に引っ越し、小学2年生でサッカーを始める
- 1994 プロサッカー「セレッソ大阪」ジュニアユースに入団
- 1996 中学2年でサッカーをやめる。翌年、ギターを手にする
- 1999 上京。ビジュアル系バンド、デュール・クォーツに加入
- 2004 メジャーデビュー
- 2006 活動を3カ月休止して、米・ロサンゼルスに留学
- 2009 melody.と結婚。独立
- 2013 映画「不屈の男 アンブロークン」への出演が決まる(翌年米で、16年に日本で公開)
- 2014 ロサンゼルスに拠点を移す
- 2017 UNHCRの親善大使に任命される
- 2018 パリ・コレでモデルデビュー
Memo
家族…ハワイ出身の妻melody.との出会いは、NHKの海外向け音楽紹介番組「J−MELO」。出演後、MCをつとめたmelody.を「英語を教えて」とデートに誘った。8歳と7歳の2人の娘との4人でロスで暮らす。「子どもに英語の対話力と、世界で通用する感性を与えたい」というのも移住の理由のひとつだ。慣れない環境に疲れ、日本への帰国が頭をよぎった時も「守るべきものがあったから、踏ん張れた」。
タトゥー…指や胸、腕など体のあちこちに刻むタトゥーには「備忘録(メメント)」の意味がある。胸の「不退転」は「自分が止まろうが世界は回っている。だったら前に進むしかない」という決意をこめた。背中には父の韓国名「李」の文字。親になってから「先祖がいたから、自分がいる。彼らが築いてきたものを受け継いでいきたい」と思うようになった。