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見えない「境界」見据える。答えを探り、未来を示すアーティストとして生きてゆく

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
神奈川・逗子のアトリエ。作業台の上にはウェットスーツ素材のアザラシが。栗林の作品には、水陸を自由に行き来する photo: Semba Satoru

今年最初の寒波が襲った1月半ば、徳島県吉野川市の和紙製造会社「アワガミファクトリー」に栗林を訪ねた。月末から都内で上演した舞台美術の制作のため、インドネシアから助手を連れて帰国中だった。作るのは高さ3.5メートルのヒマワリ4本。太陽のように咲く花が枯れていく過程の色みや質感を「紙で表現できると直感した」と言う。石膏の型に染色した和紙原料のコウゾの繊維を敷き詰める。夜は0度近くなる作業場で、かじかんだ手を時折ストーブで温めながら、夜を徹しての作業が続く。

7年前の東京・六本木の森美術館での展覧会では、この阿波和紙を使い、188平方メートルの展示室を真っ白な林に変えた。顔の高さに紙の「地面」があり、見る者は腰をかがめて地下を歩き、数カ所に開いた穴から地上をのぞく。「その発想とスケールに驚いた」とアワガミファクトリー理事長の藤森洋一(69)。作品は今年、スウェーデンの美術館で再び展示されることになった。

作品の多くは「境界」がテーマだ。青森県の十和田市現代美術館では、日本人作家でただ一人、専用の展示室を持つ常設作品を制作した。中央に置かれたテーブルに上り、頭一つ分の穴から天井裏をのぞくと、そこは沼の真ん中で、沼の端にはアザラシが顔を出している。見る者は自分が境界にいると気づく。

海と陸、国と国。世界にはさまざまな境界がある。「海の事故は水面で起きる。国同士が国境で衝突する。何かが起きるのは二つの世界が接するあいまいな部分、線引きできない場所だ。何を考えても、最後はそこに行き着いてしまう」

「ネイチャー・センス展」に出品した「Wald aus Wald(林による林)」 (アワガミファクトリー提供)

「おまえは何者か」

photo: Semba Satoru

少年時代は故郷・長崎の野山を駆け回り、部活動の剣道に没頭した。父親は「虫の目」で見たような昆虫写真で知られる写真家の栗林慧(77)。「家にいる時はスタジオにこもりきり」の父から、集中力を受け継いだ。当時はアーティストになるとは考えていなかった。美大を志したのも「面白そう」というほどの動機だ。だが、姉の滝澤秋子(51)は幼い栗林に片鱗を見ていた。「他の子が何をしようが、先生が呼ぼうが、幼稚園の砂場でひたすら泥団子を作っている子でした」

大学でも剣道を続け、彫刻や建築など、専攻の日本画を超えて友人ができた。卒業後は海外へ。作品集を手に各国の美大を訪ね歩き、学生から情報を集めた。憧れの作家が教授陣にいて、学費が安かったドイツの大学に落ち着く。

ドイツでは「身につけた技術をはぎとる作業」の連続だった。多忙な教授陣と面会の約束を取り付けても、絵の講評はそこそこに「なぜ描くのか? 何を表現したいのか?」と迫られた。

境界を意識しだすのはこの頃だ。まだドイツ統一から日が浅く、あちこちに国境の名残があった。旧東独エリアに入ると、見えない境界があるかのように、突然、周囲の風景が変わる。「おまえは何者か」を問われ続け、日本のことを考えた。日本の国境は海だ。海は人間と自然を隔てるものでもある……。

ドイツ生活も12年となり、現地に根を張り始めた頃、若手芸術家を育てるトーキョーワンダーサイト館長の今村有策(57)が偶然、現地で作品を見て「やけに面白い」と2003年に東京での企画展に招く。展示室にペンギンが1頭。頭頂部はじょうごのように伸びて天井とつながり、天井裏には池が……。水陸の境界を自由に往来するペンギンの「頭の中をのぞく」作品は好評で会期延長された。それも帰国のきっかけの一つだ。「日本食が恋しい。人生の仲間を作りたい。動機はいろいろですが、ドイツで安定して、面白くなくなったのが大きいかな」。素描以外、荷物はほとんど捨てた。

神奈川・逗子のアトリエ。作業台の上にはウェットスーツ素材のアザラシが。栗林の作品には、水陸を自由に行き来する photo: Semba Satoru

神奈川・逗子の知人の家を借り、国内外の展覧会に意欲的に出品した。サーフィン仲間で写真家の志津野雷(41)らと組み、自作の屋台を世界の境界に運び、交流を映像に収める「ヤタイトリップ」を始めた。「表現は伝えるためにあり、だれに、何を、どう伝えるかが大事だと教わった」と志津野は言う。

1作ごとにスケール感を増し、新たな表現法を打ち出すが、作品が評価されることと、作家が食べていけることは別。現代美術では画廊との連携も重要だが、栗林の大がかりな作品は個人の収集に向かず、長い外国生活で身につけた率直な物言いも日本の風土になじみにくいようだった。帰国当初から応援する今村は言う。「現代美術はその国の文化的背景を反映する。ドイツでは人々の思想信条と生き方は重なり、アーティストは政治信条も含めスタンスを明確にする。栗林の作品の強度はそこにある」

そんな状況だから、限られた予算の下で不可能に見えるイメージの具現化に挑むことになる。廃校の校長室を丸ごと凍らせる作品では、大型冷凍機の購入で当初予算が吹っ飛んだ。大学の後輩で時々制作を手伝う建築家の武藤崇生(45)は「予算に構わず最高の質を求めるから苛酷な現場が多い。いつも二度とやらないと思うのに、達成感が忘れられず、また参加してしまう」と苦笑する。

震災が分岐点

石膏型から作品を取り出す。「最も心おどる瞬間」だ。全幅の信頼を置く助手のアガ(26)=右=は「タカシが考えることは人と違う。一緒にいるとつねに新しい経験ができる」 photo: Semba Satoru

11年、ネパールの標高4000メートルの村へのヤタイトリップを終えて帰国した翌日、東日本大震災が起きる。それが分岐点となった。

中でも、福島第1原発事故に栗林は衝撃を受けた。目に見えない放射能によって避難区域の線が引かれる。海や土や空気はどこまでが「安全」なのか? 関心は「見えない境界」に向かった。

危険区域の海岸で波乗りする映像を人工の竜巻に映す「Tornado」、原爆の開発許可を求めるアインシュタインの手紙をガラス文字で表したシャンデリアの四方を、除染土を詰める袋の連なりで覆う「Vortex」など、作品は強いメッセージ性を帯びていく。

4年前、インドネシアに拠点を移した。急速に「事故前」の社会に戻ろうとする流れに、「中にいたら何も見えなくなる」と感じたからだ。今も年に数回福島を訪ね、地元の人々と交流を続ける一方、戊辰戦争を見直し、歴史の事実を模索するプロジェクトを志津野と進める。「私たちはどこへ向かうのか。未来を示し、導くのがアーティストだ」

現代美術に詳しい森美術館館長の南條史生(67)は言う。「誰もが無理だと思うことをやる。話が大きすぎてスポンサーもつきにくい。でもあれだけスケールの大きな仕事をしていればチャンスは必ず来る。その時、何をして応えるかがアーティストとしての勝負だ」

(文中敬称略)

直感を大事にするアーティストらしい結果となった。5をつけた「力」の中でも、「集中力」は「間違いなく自信がある。これが唯一の強みだと思う」。「独創性・ひらめき」は4。意外ですね、と言うと「5だったら、もうちょっと楽に仕事ができると思う。自信はあるけれど、毎回の生みの苦しみを思うとね」と正直だ。

「協調性」は3。「それなりにあるんですよ。最近は人の言うことを素直に聞くようになったし。ただ、ものすごい人見知りなんです。実は『ひとり好き』で、気がつくとずっと一人でいます」

MEMO

ミニクーパー…無類の車好き。中でもミニクーパーは特別だ。ドイツ時代に「乗車用」「パーツ取得用」「メカをいじる用」に3台同時に所有したことも。パーツを探して欧州を旅したこともある。

「大金は要らない」…現代美術家を応援する「ワンピース倶楽部」を主宰する石鍋博子(60)は長年の友人だ。初対面の時、鉄道ICカードに入った数千円が「全財産」だという栗林に驚いた。後に「大金は要らないから、世界中の美術館から『栗林なら何をしてもいい』と言われる作家になりたい」とも聞いた。「アーティストには2種類いる。アート作品を作る人、生き方がアーティストの人。彼は間違いなく後者ね」

ウェブサイト…インドネシア移住を前に作った。サイトを見た海外の美術館から依頼が舞い込むことも。
(webサイトはこちらから)

文と写真

文・後藤絵里
1969年生まれ。GLOBE副編集長。十和田市現代美術館での「境界」体験が取材のきっかけ

写真・仙波理
1965年生まれ。朝日新聞東京本社カメラマン。アフガン、イラク戦争などを取材