ここ数カ月、私の周りの人たちは、情報を回避するという入念な儀礼で日々の生活をいっぱいにしている。ほとんどどんなことでも、ニュースを読むよりはましだというように。ジョギングを始める人、凝った夕食を作り出す人。私の母はアンデスにハイキングに行った。私はというと、赤の他人の思い出話を読みふけっている。内容は記憶があいまいで、文法的に間違っている文章も多いけどやめられない。心地いい中毒感があるのだ。
仕入れ先は「大好きなのにはっきり思い出せない本と人をもう一度つなぐ」ためのウェブサイト「スタンプ・ザ・ブックセラー」(Stump the Bookseller)。クリーブランドに近い一軒の本屋が運営していて、題名を思い出せない本の内容についてつづられた依頼文から毎週10本までが掲載される。夢日記的なものや医療専門掲示板並みに差し迫ったもの、どの依頼も説明的だが、切迫しており、不可解だ。宇宙から来て漂うボールを少年が救う話、「薄気味悪い変わり者」の少女が他人から借りた髪留めで足の爪の手入れをする話。金の指輪をベルトにする小人、レディーという名前かもしれないイモリ……。
もう20年以上も続くこのサービスは「生き別れていた宝物の本、約50パーセントの確率で見つかります」とうたう。子供の頃読んでいた本をわが子にも読ませようと張り切る新米パパ、ママからの依頼もある。私のように、精神分析学的に説明できる理由など何もなく、突然「グーグルできない(un-Google-able)」本のタイトルを知らずにはいられなくなる人もいる。
悩める大人たちは、一回4ドルの依頼料で心が楽になれるかもしれない。「解決される保証はありません」と明記されているとおり、誰からも回答がなく迷宮入りする依頼もあれば、大勢をインスパイアする依頼もある。ごく私的な欲求不満が集合的な満足へと昇華し、突飛でありえないような思い出話も本当にあったのだと確認される。
解決の手がかりとされる情報は「大体の出版年とタイトルの推測、登場人物の名前、特徴的なあらすじ」。子供向けの本に頻出する特定のモチーフ(タイムトラベルや魔女、人形)もあれば、恣意的なものも。依頼の大半は孤高の奇天烈さを放つ。それらは物語を読むことの道徳的な意義や、物語を話すということは人間性の中核なのだといった言説を裏付けてくれるわけではない。大した教訓も説かなければ、話の筋さえろくに語られないのだから。
代わりに披露されるのは、精神の闇を垣間見るような、特異な断片だ。工事のために追いやられたモグラだとか、ビーバーのしっぽを料理するアラスカの夫婦だとか。「給仕用エレベーター」「田んぼ」「擬人化された太陽」といった単語が散らばっている。たとえばある日の依頼はこうだ。「1980年代に読んだ本で、たしか主人公の名前はラスティ。10代で妊娠するけど、感覚遮断タンクで自殺してしまうような話だったはず。よろしくお願いします!」
サイト上を行き交う「思い出せない」ことのつらさは、たとえば同じく思い出せない歌詞や人の名前よりはどこか魅力的だ。一方ラジオやパーティーの招待状のような思い出すきっかけがない分、苦しくもある。本の記憶とは、誰とも共有されないまま読んだ本人からも遠のき、現在の自意識によって屈折させられるもの。ほんの一部でも覚えているとしたら、それはよっぽど奇妙な話ということだろう。夢見がちで荒唐無稽な筋書きのいちいちを真に受けていたら、自分さえ見失ってしまいそうだ。
今や更新のたびに何時間も読んでいる私だが、毎回心震えるものがある。他者というのはこんなにも生々しい存在なのだという圧倒的な再発見と、誰の心の中も不完全で枝葉末節なイメージがちりばめられているという事実が、依頼から突きつけられるのだ。その感覚といったら、捕らえようがなく、予測不能で、説明できない。せっけんを彫って作られた子猫の話のことをずっと思い悩んでいるような人を、不思議に思わずにいられるだろうか?
忘れ去られたような曖昧な物事も、何らかの形で今もあなたとともにある。それは、またよみがえり、おそらくは共有されることをも待っているのだろう。(アリス・グレゴリー、抄訳 菴原みなと)
©2017 The New York Times
Alice Gregory
ニューヨークタイムズ・ブックレビューのコラムニスト。ニューヨーカーやGQにも寄稿。