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[第12回]大災害最後の生存者の死で失うもの




1906年4月18日、ウィリアム・A・デルモンテは母親にテーブルクロスにくるまれ、家から飛び出した。水道管もガス管も破損、窓ガラスは粉々に飛び散り、電線はよじれ、ひび割れた地面に2メートル近い溝が刻まれた。小さな火の手が上がり出し、大きく傾いた家屋は今にも崩れそうだ。


その地で地震後の数時間を過ごすということがどのようなものだったか、生存者の書簡や観察記録で追体験できる。午前5時12分、45~60秒間にわたって大地が揺れ、「酩酊」感覚をもたらし、余震でその日は地盤が不安定だった。石畳の上を荷物がひかれていくずしん、ずしんという音もとらえられている。


当時はまだ橋は架かっておらず、一家は対岸のオークランド行きのボートに乗り込んだ。向かう先には所有している農場があり、街を離れることができたのだ。船上での3日間、1000度超の炎に包まれて燃えゆくサンフランシスコを一家は見ていた。508もの区画が焼け落ちた一帯は再生まで20年かかったと言われている。


行き場をなくした住民が落ち合ったロッタ噴水には、友愛結社サウス・マーケット・ボーイズ・クラブによって花が手向けられた。災害の慰霊碑となったこの場所では1919年以来、毎年4月18日の5時12分に大々的に噴水が上がり、追悼集会が開かれる。出席者たちは山高帽につけひげ、年季の入った防火ヘルメットなど当時の装いを再現する。およそ3000人の犠牲者に向けて黙とうを捧げる厳かな1分間に続き、消防当局の警告が響き渡る。1906年のような悲劇がいつ何時起こってもおかしくありません、と。




(次ページへ続く)

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