さまざまな事情によって実の親と暮らせないこどもを児童養護施設や里親家庭などで養育し保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことを「社会的養護」といいます。このたび、社会的養護の経験者たちが思いを語り合うオンラインシンポジウム「社会的養護経験者ユース座談会」が開かれました。社会的養護の当事者であり、いまはこどもたちを支える活動をしている池田累さん、山本昌子さん、山内ゆなさんの3人が、社会的養護のもとで助かったこと、うれしかったこと、大変だったこと、これからのこどもたちに必要なことなどについて、率直な意見を語ってくれました(聞き手:関根和弘・朝日新聞GLOBE+編集長)。
【第1部】「社会的養護」の私たちの経験を語ろう
施設に入り「命救われた」 初めて口にしたあたたかいご飯
―まずは、皆さんの社会的養護の経験についてお聞かせください。
池田:私は9歳のときに児童養護施設に入り、14歳から里親家庭のもとで育ちました。
山本:私は生後4ヶ月から19歳まで東京都の乳児院、児童養護施設、自立援助ホームで育てていただきました。私の児童養護施設は“家庭的養護”を実現しているような施設で、普通の一軒家にこども6人、大人3人で暮らしていました。その中で、東京都のフレンドホーム(週末里親)も経験させていただきました。
山内:私は2歳から18歳まで児童養護施設で育ちました。60~70人ぐらい生活する施設だったので毎日が修学旅行のようで。ユニット制で、6人一家族のような生活をしていました。
―社会的養護を経験する方の約7割が虐待を経験しているとも言われています。皆さんは、どんなきっかけで児童養護施設などに入りましたか。
池田:虐待家庭で育ち、近隣住民からの通報のおかげで施設に入ることができました。
6歳までは実母と再婚相手の父と暮らしていたのですが、母が出ていってしまい、そこから9歳までは義父と実の兄の3人暮らしになりました。私だけが毎日殴られたり、一人で部屋に閉じ込められたり、食事も満足に与えられなかったり…。家族の中で孤立し、こどもながらに「なんでこんな人生になっちゃったんだろう」と考えていました。
山本:私はネグレクト(育児放棄)から命の危険が迫るギリギリのタイミングで病院に運ばれ、その後、乳児院に入りました。
父の実家に嫁いだ母は、父の家族と折り合いが悪く、ネグレクトの末に出ていってしまったそうです。父も子育てをせずに私を放置していて、父のお姉さんが病院に連れていってくれました。「あと数時間遅れていたら亡くなっていた」と言われたようです。いま思えば、母も産後うつ状態で孤独だったのかなと思っています。
ただ、そうした話を知ったのは大きくなってから。自分の生い立ちを知りたいと思ったときに、施設の先生などに聞きました。周りの大人たちのおかげでしっかり愛着を形成することができたので、父や母に対していまは「私は幸せだから、自分の人生の幸せを考えて生きてほしい」という気持ちでいます。
山内:私は2歳から施設にいます。
母が私を産んだのは20歳のときで、4番目のこどもでした。母は最初のこどもを14歳で生んで、祖母が育てていたようです。でも、祖母が倒れてしまったのを機に、きょうだいみんなで施設に入ることになりました。施設には母がちょくちょく面会に来ていたので、「次はいつ来るの?」などと無邪気に母に言っていた記憶があります。
生い立ちや当時の家庭環境を知ったのは高校生のときでした。14歳で子育てするのは大変だろうなと思う一方、私たちこどもを育てなかったことを許す気持ちにはなれなくて…。でも、言葉にするのは難しいんですけれど、母のことが大好きという気持ちはいまも変わらないですね。
―社会的養護を経験した皆さんに、施設のリアルな話をお伺いしていきたいです。
まずは、施設に入所されたときにどんな気持ちだったか教えてください。
池田:私はもう率直に、「命を救われた」という気持ちでした。「これでなんとか生きていける」と実感したのを鮮明に覚えています。
施設に入ったとき人生ではじめて、あたたかいご飯を口にしたんです。保護される前は、毎日殴られて、外にも出られず、食事もなくて、どうしたら命を維持できるだろうということしか考えられなかった。施設での生活が始まり、人間として生きていけるんだという感覚になりました。
山本:私は生後4か月だったので自分自身の記憶はないのですが、施設の職員さんが当時の様子をよく教えてくれました。その施設は里親家庭のような雰囲気で、ご飯をみんなで決まった時間に食べるんです。そのときに「来たばかりの頃はこうだったよ」と思い出話をすることも多かったです。乳児院から児童養護施設に移るときには、私がほしいと言っていたおもちゃを用意して待っていてくれたそうで、あたたかい環境の中で迎えてもらえたんだなと感じました。
ご飯の時間はすごく好きで、みんなで食べていると胸がきゅっとなる感覚がありました。幸せってこういうことなんだなってこどもながらに思っていました。
山内:私も2歳から施設にいるので当時の記憶はあまりないです。ただ、入ったときに職員さんが用意してくれたくまのプーさんのぬいぐるみは、いまも大事に持っています。
きょうだいが多かったからか、2歳ながらに我慢強くて面倒見のいいこどもだったそうです。幼稚園くらいの年齢になると、こどもたちの間で家族ごっこ遊びが流行っていたのですが、私はいつも“お母さん役”。いつもみんなの面倒を見る役回りでした。
たくさんの人との関わりが楽しかった一方、ひとりの時間もほしかった
―施設の暮らしの中で、楽しかった思い出や、悲しかったり、困ったりした思い出には何がありましたか。
池田:施設には、2歳の子から高校3年生の先輩までいろんな年代のこどもたちがいて、多くの大人にも囲まれていました。いろんな人と関われたことは、いまとなってはすごくいい思い出。いまも、先輩や後輩たちと食事に行ったり遊びに行ったりしています。
何より大きかったのは、野球に出会えたことでした。施設対抗の野球大会があり、ずっとピッチャーとして活躍させてもらえた。野球に出会えたことが、いまの僕につながっています。
一方で悲しかったのは、野球で高校進学が決まっていたところに、全寮制という制度上、施設にいることから難しかったのか、進学できなくなってしまったことでした。そこで改めて、里親家庭から学校に行けたらいいだろうなと思うようになりました。
山本:施設ではさまざまな行事ごともありましたが、私には毎日の何気ない出来事がすごく楽しかった。小さい頃に絵本を読んでもらったり、学校であったことを先生に聞いてもらったり。夏休みや冬休みには、海やスキー旅行にも行きました。その準備で「どの洋服を着ていこう」とか「行きの電車でやる塗り絵を買いに行こう」と考えている時間も楽しかったですね。
大変だったのは、私というより周りだったと思うのですが、私がけっこうな問題児だったんです。感情をうまくコントロールできずにほかのこどもたちを傷つけてしまうこともあった。でも、職員さんは根気強く、「どうしたの? 何か理由があるんじゃない?」と、理由を一緒に考えようとしてくれました。いまも本当に感謝しています。
山内:私の施設は60~70人の集団生活だったので、生活のルールもたくさんありました。消灯時間や食事の時間など、決まりを守れなかったときは先生たちに怒られるのですが、そのときもふざけ合って笑い合っていた。そんな時間が一番楽しかったですね。
自分がやりたいことだけをやる…ということはなかなかできなくて、それが少し大変なことでした。
―施設を卒業してみて、もっとこうなれば良いと思うことや、逆に変えずに守っていくべきと感じていることはありますか。
池田:20年前の当時、施設内にはほとんどプライバシーがありませんでした。1部屋4~5人で生活していたので、もう少し自分だけの空間がほしかったなという思いはあります。
守っていってほしいのは、こどもの命を守る場所であるということ。僕自身、命を助けてもらったので、これからもそういう環境であり続けてほしいです。
山内:私も、大きな施設でわちゃわちゃと暮らしていたので、ひとりになれる時間はなかったですね。自分だけを見てほしい、自分の話だけを聞いてほしい、と思う時期もあったので、大人たちがこども一人ひとりに向き合ってくれる時間がもっとあったらよかったなと思います。
ただ、こどもの意見を汲み取って、「できるように考えてみるね」と言ってくれる大人がたくさんいたのはよかった。同じ境遇のこどもたちと一緒に思いを共有して、絆を深めることができたので、そうした輪が生まれる場所であり続けてほしいと思います。
山本:職員さんとこどもたちがコミュニケーションを取りながらいられる環境は、大切にしていってほしいですね。
一方で、施設の利用者の声をどの機関に訴えれば改善につながるのかということや、第三者機関との連携がもっと強くあればいいのではないかと思っています。18歳以降のアフターケアとして自立支援コーディネーターが全国に配置されるようになるなど、どんどん状況が改善しているのはとてもいいことだなと思っています。
―施設の暮らしの中で、頼れる大人はどんな存在で、どんな接し方がうれしかったか。エピソードがあれば教えてください。
山本:一緒に笑ったり怒ったり、感情を共有してくれる先生が大好きでした。やってはいけないことがあっても、ルールだからダメ、ではなくて、小さいこどもに対してもきちんと説明してくれました。
私は悪さばっかりしている問題児でしたが、一番よくしてくれた職員さんは、怒るのとセットで「あなたのことが大好きなんだよ」ということを伝えてくれる人でした。自己肯定感を下げないように、愛情をセットで注いでくれたことは本当にありがたかった。施設を卒業して11年経ったいまも、職員さんや一緒に過ごした人たちとよく集まっています。
山内:私は山本さんと逆で、すごく“いい子ちゃん”でした。毎年職員さんが変わる環境の中で育ち、「職員さんはどうしたら施設に馴染んで、長く働き続けられるかな」ということまで考えているこどもでした。大人に頼ることがなかなかできなかったのですが、高校生になって施設外の大人とのかかわりが増えると、視野も広がっていきました。
インターンで参加したNPOでは、代表の方が私の話をすごくよく聞いてくれて、「やってみなよ、応援するよ」と背中を押してもらえたことがうれしかった。日常から離れたことで、頼れる存在を見つけられるようになりました。
里親家庭に迎え入れられ、世界も広がった
―ここからは里親制度について触れていきたいと思います。実際に里親家庭を経験された池田さんと山本さんにとって、最初のきっかけは何でしたか。里親家庭での体験談や当時の思いなどもお聞かせください。
池田:施設に入った年の冬に、里親さんがこどもを迎えに来る場面を見て、里親制度があることを知りました。自分も里親家庭に行きたいなと思ったのは、仲の良かった先輩が里親家庭に迎え入れられるのを見てからです。
施設が山の中にあり、周りに何もない環境だったので、「もっと外の世界を見たいな」という好奇心が強くなっていきました。10歳で野球に出会ってからはますます、外で野球がやりたいと思うようになりました。
里親家庭に入ったのは14歳のとき。里親さんから「お父さん、お母さんって呼んでいいよ」と言われたのですが、最初の2か月は抵抗がありました。これまでの人生で口にしたことのない言葉でしたし、同い年の実子もいて、どこか遠慮があった。でも、その実子が「呼んでいいんだから!」と何度も言ってくれて、だんだんとほぐれていきました。
里親家庭に入ったことで、人生の選択肢はすごく広がりました。大学への進学についても一緒に考えてくれて、挑戦したいことへと背中を押してくれた。いまでも、仕事の合間に月1、2回は里親家庭に顔を出して交流が続いています。
山本:私は小2から1年間と小4から2年間、週末里親さんを経験しました。
「普通の家庭がどういうものか経験できる場所だよ。行ってみる?」と職員さんに言われて、「じゃあ、行ってみたい」と気軽に行くようになりました。
基本的には2泊3日、長いときは1週間の滞在で、友達の家に遊びに行くような感覚でした。最初の家には猫がいて、次の家には犬がいたんです。動物と暮らすことが夢だったので、本当にうれしかった記憶があります。いまも里親さんとご飯に行くこともあり、たまに会える関係性が長く続いています。
山内:私自身は里親経験がないのですが、弟が週末里親にお世話になっています。
「僕のおばちゃんがこんなことしてくれたんだよ!」と話す姿を見て、弟“個人”を見てくれる存在ができたことがすごくうれしかったですね。
施設で育つことが悪いとは思わないけれど、個人と個人のつながりをつくる上で、里親はすごく大事なんだなと感じています。
【第2部】こどもたちのために 世界を広げ、思いを伝えたい
―こどもたちのためにできることとして、社会的養護を経験された皆さんがどんな取り組みをされているのか。皆さんの手掛けたプロジェクトについて教えてください。
山内:施設で過ごすこどもたちに、情報を得る機会を提供することで、将来への選択肢を広げていってほしい。そんな思いから、クラウドファンディング上で「JET BOOK作戦」を行いました。施設のこどもたちに本を寄贈するプロジェクトで、「人生で出会った最高の一冊を送ろう」という思いに、5400人の方が賛同してくださいました。集まった資金は3700万円に。全国110カ所の施設に、100冊ずつ本を贈ることができました。
施設にいると、なかなか外の大人とかかわる機会がなく、世の中にはどんな職業があるのかも知らないこどもたちが多いんです。そこで、5400人の皆さんには、「本の題名、作者、なぜこの本を選んだのか、読んだときに何を感じたか」という思いとともに、その方の職業も書いてもらいました。すると、消防士の方が勧めてくれた本を手に取ったこどもが「僕も同じ気持ちになった。消防士に興味もわいてきた」と言ってくれた。それがすごくうれしかったです。
プロジェクトを思い立った当初は、施設に対してマイナスなイメージを持っている人が多いのではないか…と思っていたので、こんなに賛同してくれる方がいるなんて驚きました。
いまは、こどもたちへ情報を得る機会や、ネット環境に触れる機会を届けたいという思いもあり、プログラミングを学ぶプロジェクトを進めています。コツコツとできることを積み重ねて、「自分にも作れた!」という自信につなげてほしいと思っています。
山本:私は17歳の頃から当事者発信としてメディアでの活動を始めました。
23歳になったときには、施設出身者に振袖を提供し、「生まれてきてくれてありがとう」を伝える“ACHAプロジェクト”の代表になりました。コロナ禍では、全国の施設出身者とオンラインでつながる「オンラインの居場所事業」をスタート。そこで聞いた困りごとの声から、食品支援や洋服支援を行ったり、虐待の後遺症のメンタルケアの拡充を求めて4万7000人の署名を厚生労働大臣に届けたりと、活動の幅を広げています。
2023年4月には、当事者70人の声を届けるドキュメンタリー映画「REALVOICE」を製作し、全国60カ所での無料上映につなげています。
ほかにも、児童養護施設出身者3人組「THREE FLAGS」としてのYouTube発信や、全国で課題を抱えるこどもたちに寄り添う「おせっかいsanグループ」を結成し、週末里親のような存在を増やしていっています。
―そこまで活動の幅を広げる、山本さんの原動力はどこにあるのでしょう。
山本:私には、施設ですごくお世話になった職員さんがいて、恩返ししたいという気持ちが強くあります。その方に恥じない人生を歩んでいこうと思ったときに、自分ができることをしていこうという力がわいてくるんです。
活動に対する反響にもとても力をもらっています。ドキュメンタリー映画をカナダで上映する機会があったのですが、虐待を経験されたカナダ人の若者が映画を観てくれて、「自分はひとりで戦っていると思ってきたけれど、日本にも同じ仲間がいると思って勇気が出た」と言ってくれた。さまざまな活動を通して、当事者の子たちに「一人じゃない」ということを伝え続けていきたいと思っています。
―池田さんは、日々の仕事の中でどんなことに取り組んでいますか。
池田:私は不動産業と建設業に携わっているので、「不動産を通じて安定した生活を提供する」ことが自分の使命かな、と考えています。
現実には、普通の家庭環境で育っていないというだけで住宅を借りられないケースがある。そうした偏見を解消していく仕組みづくりにも取り組んでいきたいです。また、全国で増えている空き家の利活用を進めることで、社会的に困っている方に住居の提供を広げることができるかもしれません。
いまは住居にかかわる仕事をしていますが、いずれ食にもかかわっていきたくて、こども食堂を開いて地域の輪をつなげていきたい。こども同士も大人同士も触れ合う機会を作る、そうした取り組みを進めることも、私を育ててくれた方への恩返しだと思っています。
山本:素敵ですね。ドキュメンタリー映画を撮ったとき、親御さん自身が孤立していることが問題だなとすごく感じました。こども食堂でありながら、大人全体を包み込むような食堂ができたらいいですね。完成したらぜひ遊びに行きたいです。
里親になるのに特別なことは必要ない 週末里親、ボランティアなどの選択肢も
―里親制度は充実してきていると思いますが、さらに社会的養育を広げていく中で、今後どのような取り組みや改善が必要だとお考えですか。
池田:里親になるというハードルがまだまだ高いと感じています。“里親はこうあるべきだ”“こうじゃなくちゃいけない”という考えがもう少し緩んで、自然体のまま、特別なことをしなくてもいいんだという風になっていくといいですよね。
山内:そうですね。地方に行けば行くほど里親の数が少なくなっています。養育里親は難しくても、週末里親に登録してみたり、施設へのボランティアに参加してみたりと一歩踏み出す方が増えることで、1対1の関係を築けるこどもの数が増えていくと思っています。
山本:里親さんや施設で働く職員さんなど、こどもたちを支援する方が孤立しないような体制づくりも大切だなと思います。私自身、こどもの頃に周りの大人たちをたくさん傷つけてしまったと思うので、私のようなこどもに接する大人を守る仕組みも欠かせません。里親さんも悩みを抱える方が多いと思うので、里親会など、子育ての悩みを打ち明けられる場所も増えていってほしいです。
池田:こどもって、実子でもそうでなくても、思い通りにならないものですよね。だからこそ、サポート体制は絶対に必要。みんなで連携し合いながら、「今日は疲れたから、誰か面倒見てくれる?」というフォローができるような、地域全体でそうした仕組みが生まれたらいいなと思っています。
いけだ・るい/ 1990年生まれ。 9歳で児童養護施設に入所、14歳から里親家庭で育つ。高校卒業と同時に独立し、現在は結婚して2児の父。野球に打ち込んだ高校時代を支え、背中を見せてくれた里親夫妻のことは「人生の先輩」として現在も慕う間柄。
やまもと・まさこ/1993年生まれ。児童養護施設で育ち、小学生のころに週末里親の一種である「フレンドホーム」(東京都の制度)を利用。「THREE FLAGS -希望の狼煙-」プロジェクトのメンバーとして、児童養護施設で暮らした経験や考えを交えながら社会的養護の現状や課題を紹介し、視聴者と一緒に考える番組をYouTubeで発信している。
やまうち・ゆな/2002年生まれ。社会福祉学を専攻する大学生。2歳から18歳まで児童養護施設で育つ。施設のこどもたちに本を贈る「JETBOOK作戦」の代表を務めるほか、施設のこどもたちにプログラミングを教えるボランティアを行うなど、こどもたちを支える活動を精力的に行っている。