歴史の教訓「関税ゼロ」目指してきた世界の終焉 覇権国家とともに変わる関税の役割
テムズ川が霧雨に煙る。はね橋で知られるタワーブリッジ近くまでゆくと、くすんだ砂色の低いビルが見えてくる。「CUSTOM HOUSE(カスタムハウス)」。かつて貨物の輸出入を管理していた税関庁舎だ。
金融街シティーにも近い。700年も前からロンドンのこの辺りにある。18世紀のベストセラー「ロビンソン・クルーソー」の著者ダニエル・デフォーは「莫大(ばくだい)な収入がある。カスタムハウスの堂々とした建物は取引の巨大さを示す」と書き残す。
羊毛、毛織物、茶、ワイン、タバコ、蒸留酒─-。海を渡って富が行き交うロンドン港は、世界最大の取引量を誇った。貿易によって商人が得た富を国庫に納めさせて財源とする。英国の関税や税関制度は近代以降、世界に大きな影響を与えた。
「ドーン、ドーン」。大砲の音が響く。すぐそばのロンドン塔からだ。9月半ば。米国のトランプ大統領夫妻を迎える礼砲だった。第1次政権時とあわせて国賓として2度目の訪英。市内では訪問に抗議するデモも行われていたが、英王室は手厚くもてなした。ウィンザー城での式典で、夫妻はごきげんだった。アップル、オープンAI、エヌビディアなど米テック企業の首脳も同行し、英国への投資を発表した。
トランプ大統領が仕掛けた「関税戦争」で、英国は5月、一番乗りで基本合意した。
なぜか。
国家の安全情報まで共有する特別に緊密な二国間関係が背景にあることは言うまでもない。さらに、英国は米国に対して貿易赤字を抱える。全世界に対しても貿易赤字だ。
18世紀の産業革命後、機械などの製造業を中心に工業大国になった。その英国の経済規模を米国が追い抜いたのは19世紀後半。産業革命は各国に広がり、英国は競争にさらされる。人件費や社会保障費の負担もあって、後を追って発展した国々に製造業を譲り渡していく。
この地の金融機関で働いて25年。シティー行政府が認めた観光ガイドも務め、歴史に詳しい坂次健司さんは言う。「モノよりも金融やサービスを中心とした産業構造に変わって久しい」。製造業の比率は国内総生産(GDP)の1割を切り、2割台の中国や日本、1割の米国より低い。関税が税収に占める比率は1%足らずである。
『世界の工場』だった時代は遠い昔だ。
礼砲の音を聞きながら、川沿いの遊歩道をカスタムハウスへと向かう。よく育ったプラタナスの葉のかげから、正面の外壁に据えられた丸い時計がのぞく。デフォーの時代と異なり、林立するマンションやオフィスビルに埋もれている。
英国政府が2001年に地元の不動産会社へ売却後、税関機能は別の場所へ移り、21年からはほぼ空き家になっていた。ウォーターフロント開発の一環として、高級ホテルに姿を変える予定だ。門は閉ざされ、水色の柵で囲まれている。
隣の高層マンションの名前は「SUGAR QUAY(砂糖埠頭〈ふとう〉)」。英国がカリブ海の植民地でアフリカ人奴隷を雇って栽培したサトウキビを扱う貿易から名付けられた。スマホで価格を調べると、広さ100平方メートルで285万ポンド(5.8億円)。玄関から東洋人らしい男女が出てきた。中国大陸南部からの留学生だ。「来たばかりだし、よくわからない。隣が何になろうが、私たちには関係ない」。川沿いの不動産はご多分にもれず、中国マネーによる投資が席巻する。
次の覇権をうかがう中国が、「国家の恥辱(国恥)」の起点とする戦争がある。19世紀半ばの清と英国とのアヘン戦争だ。敗戦後、関税自主権の喪失を含む不平等条約を強いられた。国力を落とした中国は日本にも侵略され、大国の地位から転げ落ちる─-。そこからの「復興」が、14億人を束ねる中国共産党が語り継ぐ歴史である。
「抗日戦勝80周年」を記念した軍事パレードが行われた北京を、9月初めに訪ねた。中国税関博物館。国家主席の習近平が閲兵した通りのそば。愛国主義教育の基地でもある。中国の「関」の歴史は長く、「周」(紀元前11世紀~紀元前3世紀)にさかのぼると紹介している。「国が強ければ関は栄え、国が弱ければ関は衰える」。親子連れでにぎわう館内を歩くと、展示でそう、うたいあげていた。
ウチとソトを分け、税を課す権力。これは国家主権そのものだ。時は流れて、台頭する中国にとって米国との関税戦争は「主権」をめぐる戦いでもある。
関税は火の粉があがる戦争と縁が深い。英国から米国への覇権の移行期にあたる20世紀前半。1929年の世界恐慌後、米国は国内産業を守るために輸入品に高い関税を課した。英国、オランダなど各国列強も対抗して高い関税で自国内ばかりか植民地も囲い込んだ。世界に保護主義が広がり、自由貿易を原則とした経済成長の潮流は失われた。高い関税に守られた閉鎖的な経済圏は、排他性を帯びた政治的な分断につながっていく。第2次世界大戦の遠因とされる。
その反省からも、戦後の東西冷戦下、関税の水準を下げて市場を共有して経済成長を目指す自由貿易体制が築かれた。共通の関税のルールは、ともに豊かになるために主権を譲り合った成果でもあった。西側の中心には他を寄せつけない経済力を備えた米国がいた。だが、21世紀の「世界の工場」として「復興」をとげた中国に加えて、グローバルサウスと呼ばれる新興・途上国の存在感が拡大。均衡は崩れつつある。
トランプ政権による「関税戦争」で、米国の平均実効関税率は歴史的な水準にある。米エール大学予算研究所の試算によると、10月時点で18%。1934年以来の高さだ。
近代の関税システムを育んだ大英帝国。代わって覇権国となった米国は戦後、自由貿易を牽引(けんいん)した。その圧倒的な地位を揺るがす中国は、トランプ政権の関税戦争の最大の標的となった。
「ともに大国としての責任感を示し、両国と世界にプラスになることをする」。10月30日、韓国・釜山での首脳会談。習近平国家主席はトランプ大統領に対して、「パートナー」「友人」と呼びかけた。米中関係を「大きな船」に例えながら、舵取り役どうし対等な立場を幾度も強調した。
その船はどこへ向かうのか。米中が間合いをつめる関税をめぐる交渉は、国際秩序の行方を占う羅針盤だ。