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女子ゴルフ、畑岡奈紗はなぜ強い?舌を巻いた服部道子「ショットが鉛のように重く…」

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
メジャー優勝とパリ五輪の金メダル。これがいま、畑岡奈紗が掲げる目標だ
メジャー優勝とパリ五輪の金メダル。これがいま、畑岡奈紗が掲げる目標だ=茨城県のPGM石岡ゴルフクラブ、西岡臣撮影

今年4月、畑岡奈紗はプロゴルフの米女子ツアーで通算6勝目を挙げた。

この日、グリーン上での優勝インタビューに初めて英語で答えた。

「すごく恥ずかしかったけれど、やっちゃえって。ジョークを言えるようになりたい」

その姿には、確かな自信がのぞいた。

キャディーとしてツアーに同行するグレッグ・ジョンストンさんが言った。

「奈紗には多くの強みがある。洞察力に体力、エネルギーもある。中でも、精神力の強さは、ツアーの参加選手から称賛されている」

弱冠23歳で、米女子ツアーの勝利数はすでに、17勝の岡本綾子(1982~92年)、9勝の宮里藍(2009~12年)に次ぐ日本勢歴代3位だ。

武器は、身長158センチと小柄ながら平均飛距離260ヤード超のドライバーと、高い弾道で安定したアイアンショット。

東京五輪で日本代表コーチを務めた服部道子さんは9年前、初めて奈紗を見て、直感した。「ショットは鉛のように重い球が飛び、ピンポイントで止まる。これまでの日本人はパットや戦略性で勝っていた。身体能力が高く、体幹も強い。ショットで世界に通用する選手が出てきた。新しい風が吹く」と。

メジャー優勝とパリ五輪の金メダル。これがいま、畑岡奈紗が掲げる目標だ=茨城県のPGM石岡ゴルフクラブ、西岡臣撮影

7歳の時、母の博美さんが事務員をしていたゴルフ場に連れられて、初めてクラブを握り、11歳から本格的にゴルフを始めた。

奈紗は「一番飛ぶドライバーが好きで、楽しくて。練習場でおじさんたちと飛距離を競っていた」と振り返る。

ゴルフだけでなく、様々なスポーツに親しんできた。父の仁一さんは元陸上選手。「幼稚園の頃から じっとしていなくて、 家の中も走り回っていた」(博美さん)という奈紗も足が速く、小学校では学年でいつも一番だった。

少年野球チームにも入り、男子に交じって、俊足巧打の二塁手としてプレーした。

中学では陸上部とゴルフの二足のわらじをはいた。平日は夕方まで短距離走の練習をし、夕食を済ませた後、2時間は自宅や練習場でクラブを振った。

夏休みは夜8時までゴルフの練習に励み、練習場に立つ木の右から左へ曲げるドローと、逆のフェードを打つ技術も磨いた。

自宅の駐車場にはホームセンターで買ったネットで練習場をつくり、自宅の周りを走って足腰を鍛えた。世界のトップ選手に引けを取らない飛距離とショット力の礎が築かれた。

中学3年でプロを志し、通信制の高校へ。

「陸上は県大会7位。上にいける感じがしなかった。ゴルフが一番好きだった」

もう一つ理由があった。国内ツアーを観戦したとき、あこがれの宮里藍が握手してくれた。

両親はゴルフに打ち込む奈紗に口を挟まなかった。毎日遅くまで練習に付き添い、試合でキャディーも務めた博美さんは「ゴルフのことは分からない。好きなことを楽しくやってほしかった」

一方で、「世界」を見せた。2011年に韓国であった世界陸上選手権を観戦。ゴルフでは、海外で開かれる大会に出場もさせた。

世界のトップレベルを体感して刺激を受けた奈紗は、高校2年だった2015年に米国であった世界ジュニア選手権を制した。

その特典で翌年の米ツアー1試合に出場した。

「自分と一つ、二つしか年の変わらない選手がトップで戦っていた。こんなにいるのか」。焦りも感じた。

翌2016年10月、高校3年で出場した国内メジャーの日本女子オープン選手権を、史上最年少で制覇。史上初のアマチュア優勝でもあった。

日本女子オープン選手権を史上最年少で制覇。キャディーを務めた母親の博美さん(右)と父親の仁一さん(左)の3人で優勝杯を手に笑顔を見せる畑岡奈紗
日本女子オープン選手権を史上最年少で制覇。キャディーを務めた母親の博美さん(右)と父親の仁一さん(左)の3人で優勝杯を手に笑顔を見せる畑岡奈紗=2016年10月2日、栃木県の烏山城CC、諫山卓弥撮影

直後にプロに転向し、いきなり米ツアー参戦を表明した。国内ツアーで力をつけ、結果を出した後に挑む選手が多い中、異例の挑戦だった。

会見では色紙に「初志貫徹」とつづり、目標を掲げた。

2年以内に米ツアーで優勝し、5年以内にメジャー優勝する。東京五輪で金メダルを獲得するーー。

米ツアー挑戦を発表し、色紙にを手にポーズを取る畑岡奈紗
米ツアー挑戦を発表し、色紙を手にポーズを取る畑岡奈紗=2016年10月10日、東京都港区の六本木ヒルズ森タワー、渡邊芳枝撮影

2017年初めに単身渡米した。妹が高校受験を控え、母は同行できなかった。スポンサーも少なく、スタッフを同行させる資金もなかった。

広い国土を転戦し始めたが、英語はわからず、意思疎通もうまくいかない。日本と違って大会の多くは4日間の長丁場。ストレスと重圧に押しつぶされ、自信も失いかけてきた。

予選落ちが続いた2017年6月、ホテルから自宅に長電話をした。

「ゴルフを大嫌いになっていて、やめたくて。日本に帰りたくて」

家族にすべてをはき出し、泣きはらした後で思い直した。

「このまま帰るのは悔しい。1年はやりきらないと」

応援にやって来た父がしょうゆを差し入れてくれたが、封は開けなかった。

「向こうの環境に慣れるのが一番。食事もその一つ。帰りたくなってしまうから」

海外で生き抜いていく覚悟と決意は、もう揺るがなかった。

出場できる大会のなかったこの年の8月に一時帰国。国内ツアー2試合に出て、スイングも修正した。米ツアーに復帰すると、2戦続けて予選を突破した。

再び日本に帰り、プロとして国内ツアー初優勝。続く日本女子オープンを史上最年少で連覇した。

「『(奈紗は)もう終わり』みたいなことも言われていたけれど、自信を取り戻せた」

苦しい米ツアー1年目だったが、米国に戻って挑んだ最終予選会を、トップで通過した。

2018年の途中から母が同行して料理を作ってくれるようになった。そして、6月の米アーカンソー州の大会で、日本選手としては最年少で米ツアー初優勝。1年前、予選落ちして泣きながら電話した大会だった。

奈紗の名は、人類初の月面着陸を実現した米航空宇宙局(NASA)にちなみ、「前人未到のことを成し遂げてほしい」と付けられた。こんな両親の思いを体現するような、「史上初」や「史上最年少」の記録は、どうして打ち立てられるのか。

奈紗は意外にも、こう言う。

「いっぱい負けてきたから。悔しくていっぱい練習してきたから」

2014年の日本ジュニア選手権は最終日、6打差を逆転されて優勝を逃し、帰りの車の中で泣き続けた。

2019年の全英女子オープンでは、渋野が日本勢として42年ぶりのメジャー制覇をし、一躍スターになった。奈紗は予選落ち。

「日向子ちゃんが勝ってすごく悔しかった。自分も頑張らないといけないと思った」

2021年6月の全米女子オープンは、プレーオフで3学年下の笹生優花に敗れて2位。奈紗にとって、最も勝ちたいメジャー大会だった。

そのときの悔しさを忘れないようにと、大会のマークの入ったボールマーカーを使い続けた。そして、翌月の米ツアーで優勝した。

8月の東京五輪では、1学年下の稲見萌寧が銀メダルを獲得した。9位に終わった奈紗は、奮起して9月の米ツアーで通算5勝目を挙げた。

東京オリンピックに出場。プレー中に首筋を冷やしながら移動する畑岡奈紗
東京オリンピックに出場。プレー中に首筋を冷やしながら移動する畑岡奈紗=2021年8月7日、霞ケ関CC、林敏行撮影

服部さんはこう評する。

「同年代や後輩がさらっと優勝してしまうと、投げ出したくなったり、すねたくなったりするときもあるだろう。でも、奈紗は違う。真の実力者でありたい、強くなりたいという軸がぶれない。米国へ片道切符で行った覚悟がある」

奈紗はいま、クラブを縦に振るスイング改造に取り組んでいる。「やっぱり悔しかったから」

目下の目標は、メジャー優勝とパリ五輪の金メダル。プロ入り時に掲げた「初志貫徹」のために、苦い経験を力に変え、努力を続ける。