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終戦の日に殉職した自衛官、カンボジアPKO中に亡くなった警察官…この日に誓う覚悟

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昭和天皇が戦争に負けたことを国民に知らせたラジオの「玉音放送」を聞く女学生ら
昭和天皇が戦争に負けたことを国民に知らせたラジオの「玉音放送」を聞く女学生ら=1945年8月15日、大阪の海軍軍需工場、朝日新聞社

1999年8月15日、終戦記念日の早朝に2人の自衛官が「戦死」とも言える形で殉職していることを、ご存知の方はいるだろうか。

まだ夜も明けきらない、午前5時前のことだ。予想最高気温34度と、夏の朝らしい空気が漂う航空自衛隊新田原基地(宮崎県)にスクランブル警報が鳴り響く。

国籍不明機が東シナ海を北上し、領空への侵入が予想される非常事態である。状況的に考えて、ロシアの作戦機だろう。

なお1999年8月といえば、令和の今に繋(つな)がるさまざまな国際情勢の変化が起こった年である。

北朝鮮の拉致工作船に対し海上自衛隊が武力行使に踏み切るなど、史上初の海上警備行動が発令されたのが3月。

8月16日には、権力基盤を弱めつつあったロシアのエリツィン大統領がプーチン氏を首相に起用するなど、政変前夜の空気が色濃くなりつつあった頃合いでもある。

実際にプーチン氏は、就任直後から暴力的野心を隠そうともせず、翌月にはチェチェンへの全面攻撃を開始する。

東アジアを含む世界は、冷戦後の新たな世界秩序が定まらない中で不安定化し、先が読めない国際情勢の中にあったということである。

ロシア軍によって破壊されたチェチェンの中心都市グロズヌイ。当時大統領代行だったプーチン氏による強硬策の結果だった
ロシア軍によって破壊されたチェチェンの中心都市グロズヌイ。当時大統領代行だったプーチン氏による強硬策の結果だった=2000年2月、大野正美撮影

そんな中での、8月15日という象徴的な朝に発生した作戦機の接近だ。

いつも以上の緊張感の中、新田原基地から2機のF-4戦闘機、計4名のパイロットがスクランブル発進し、国籍不明機の捕捉に向かった。

しかしその直後、2機の進路に巨大な積乱雲が現れる。

場所は長崎県福江島沖の東シナ海で、真夏であっても稀なほどの、高さ、幅ともに規格外のスケールの嵐だ。

とはいえコンマ1秒を争い、戦闘も予想される状況では、積乱雲を回避することも任務を放棄することも許されるものではない。

2機の戦闘機はそのまま高高度から雲に飛び込み、目標に向かって最短距離を進んだ。

するとその直後、2機のうち1機の機影がレーダーから消失する。

僚機からの交信にも一切反応がなく、地上からの呼びかけにも応答がない。

捜索し手掛かりを得ようにも、空域・海域は視界ゼロの嵐だ。

そのため僚機のパイロットは、任務の遂行を断念しそのまま新田原に帰還せざるを得なかった。

事故を起こしたF-4戦闘機と同型機
事故を起こしたF-4戦闘機と同型機=2003年9月、航空自衛隊千歳基地、高橋洋撮影

大変残念なことであるが、消息を絶った同機は積乱雲の中で雷に激しく打たれたことで、そのまま墜落したものと推定された。

この墜落事故では2名の航空自衛官が命を落としたが、これは史上初の、スクランブル任務に上がった作戦途中にあるパイロットの殉職となった。

そのため異例の2階級特進が決定され、防衛省・自衛隊によって礼を尽くした部隊葬が執り行われている。

敵性勢力から国土を防衛するため困難に立ち向かい、そして命を落とした2名のパイロットの殉職であった。

「理由はありません」

話は変わるが、私には少し年の離れた飲み友達がいる。

元航空自衛隊のパイロットで、2018年に定年退官をした保坂光人・元1等空佐だ(以下敬称略)。

退官後は操縦桿を車のハンドルに握り変え、幼稚園スクールバスの運転手として子どもたちに愛されるオジサンである。

太く逞しい腕、日焼けし精悍さを物語る肌は“ただものじゃない”雰囲気をまとっており、これ以上はない園児たちの用心棒でもある。

そんな保坂を2022年7月のある日、東京・JR市ヶ谷駅近くのカレー店にお呼び出しすることがあった。

時間は昼の13時。いつも終電まで、新橋あたりの安物ホッピー屋で痛飲する気のおけない飲み友達だが、今日ばかりは飲みすぎるわけにはいかない。

そのためカレー店の唐揚げをつまみながら、ビール片手のインタビューをお願いしたということだ。

「保坂さん。あの日のことを改めて、聞かせて下さい」

単刀直入な質問に、保坂が虚空を見つめる。言葉を選んでいるのか、記憶を手繰り寄せているのか。
元1等空佐 (大佐に相当)らしい目力がみるみる戻ってくる。

保坂は、1999年8月15日に殉職した隊員とともに飛んでいた、僚機のパイロットである。

「詳細はもちろん、言えませんが…」

「はい」

「あの日の積乱雲のことは、今でもよく覚えています」

そう言うと手酌でビールを注ぎ、すぐに飲み干して唐揚げをつまんだ。

保坂は週末にしか酒を飲まないが、飲み始めたら水のようにグイグイ飲み、しかも顔色一つ変わらない。

「コントローラー(要撃管制官)から『前方が真っ赤です!』と、交信が入りました。積乱雲ですね。雲高は4万フィート(約1万2200メートル)を超える巨大なものだったと、後に知りました」

「そのまま進んだのですか?」

「いえ、なるべく気流の穏やかそうな場所を選び、高高度から雲に入り国籍不明機に向かいました」

そして嵐の中、僚機の機影が消失したこと。

その後に明らかになった墜落の原因は、特殊な環境下におけるF-4戦闘機のエンジン停止にあったことなどを語ってくれた。

静かで穏やかな口調だが、当時の緊迫感が伝わり背中に冷たい汗が流れる。

「保坂さん。私の興味は、自衛官の任務に対する責任感や想いそのものです。そのため、こんな質問をすることをどうぞお許しください」

「なんでしょうか」

「僚機を失い基地に戻った時の、そして事故が確定した時の感情を、言葉にできるでしょうか」

「…心に穴が空き、呆然としました。親兄弟を失ったような、手足を失ったような例えようのない虚しさと寂しさです」

保坂は腕を組み、天井を見上げた。

そのまま1、2分の沈黙があっただろうか。その答えで良かったのか、自問しているように見える。

「保坂さん、この事故ではスクランブルに上がった任務中の自衛官が亡くなっています。国と国民を守るための、作戦行動中の殉職でした。一緒に飛んだ仲間として、死生観を聞かせて下さい」

「具体的に、何を答えればいいですか?」

「そうですね…なぜ保坂さんは、あるいは殉職をされたパイロットはあの日、積乱雲に飛び込めたのでしょうか」

すると保坂は、あの積乱雲を見た時にはさすがに気後れしたこと。

突っ切ることに恐怖を感じたこと。

それは殉職したパイロットもきっと同じであっただろうことなどを、赤裸々に語ってくれた。

「それでもなぜ、自衛官は殉職のリスクを負ってまで職務を続けられるのでしょうか」

「それはとても難しいので、もっと偉い人に聞いて下さい」

「保坂さんの言葉で、ぜひ聞きたいんです」

「…平和とは、殴られたら殴り返すことが可能な力を備えて、初めて維持できるものです。戦争は多くの場合、力の不均衡から発生します」

「そう思います」

「その力を維持するためには、厳しい任務と訓練が必要です。残念ですが今のところ殉職を根絶できていないのが実情です」

「はい」

「平たく言えば、“大事なもの”を守るために誰かがやらなければならないのであれば、俺がやるということです。理由はありません」

その後もたくさんの話を聞かせてくれたが、ただひたすら、国と国民を守るという使命感を語る姿に、いつもと違う保坂を見る思いであった。

そしてそんな保坂が、この日の最後にいった言葉が忘れられない。

「先の大戦で国難に殉じた皆さんも、きっと同じ想いだと思います。最期は家族や守るべき故郷を思いながら皆、戦い、命を落とされたのだと確信しています。人間って、そういうもんです」

「それは耐え難いことです」

この日も結局、夕方から河岸を変えいつも通り終電まで、保坂と痛飲した。

しかし翌日、二日酔い気味の中でどうしても、消化しきれなかった言葉が残った。

なぜ自衛官は戦えるのかという問いに、「もっと偉い人に聞いてほしい」と、保坂が言っていたことだ。

そのため私はその足で、陸上自衛隊の元北部方面総監、田浦正人・元陸将を訪ねた。

陸自のナンバー2にまで昇り、4万人近い国内最大の兵力・火力指揮官を務めた、これ以上はない「偉い人」である。

自衛隊史上初の“戦地派兵”となった自衛隊イラク派遣では、第二次隊長として現地に渡った、いわば「自衛官の戦死」にもっとも近いところにいた男だ。

陸上自衛隊の第7師団長に就任し、抱負を述べる田浦正人氏=2015年8月、北海道千歳市、横山蔵利撮影
陸上自衛隊の第7師団長に就任し、抱負を述べる田浦正人氏=2015年8月、北海道千歳市、横山蔵利撮影

「田浦さん。唐突で恐縮ですが自衛官はなぜ、殉職のリスクがある厳しい任務を志願できるのでしょうか」

田浦はにこやかに私を迎え入れ、いつもの”田浦スマイル”を見せた。

どんな相手も懐に入れ虜にする名将は健在で、居心地の良い温もりすら感じる。

「桃野さん、意外に思われるかも知れませんが自衛官は、戦いたいわけでも戦いたくないわけでもないんです」

「…どういうことでしょうか」

「自衛官は、国民からの期待に応えあらゆる事態に備えることが仕事です。必要があれば『やってくれ』と背中を押して頂いたら、それで十分です」

わかったようなわからないような、きれいな答えだ。

すると困惑する私の思いを見透かしたように、田浦が言葉を続ける。

「自衛官が史上初めて戦死を意識したのは、ご存知のように自衛隊イラク派遣です。その準備中に気がついた、私が違和感を覚えたことがあります。桃野さん、おわかりでしょうか」

「想像もつきません」

「高田晴行・元警視のご葬儀が国主催ではなかったことです」

高田晴行・元警視とは、1992年から国連PKO要員としてカンボジアに派遣されていた、元警察官である。

しかし任務中の1993年、地元のテロ組織に襲撃され非業の殉職を遂げられている。

高田晴行さん
高田晴行さん=1993年5月、総理府(当時)提供

日本政府が派遣し、国連平和維持活動の任務中に殺害された自国民であるにもかかわらず、政府が国家として弔う態勢でなかった事実を、田浦は話している。

気がつけば田浦の表情から笑顔が消え、厳しさと哀しさが入り交じるかのような目で話を続けている。

おそらく、殉職された多くの先人や同僚・部下たちに思いを馳せているのだろう。

「自衛官は国と国民のために、高い使命感を持っていつでも戦う覚悟ができています。しかしもし、その戦死に対し同じ処遇が繰り返されるのであれば、それは耐え難いことです」

「…はい」

「日本政府・国民には、『自衛官を戦死で失う現実的な覚悟』を持った本質的な法改正、憲法論議をお願いしたいというのは、偽らざる想いです」

日本に到着した高田晴行さんのひつぎ
日本に到着した高田晴行さんのひつぎ=1993年5月、大阪府豊中市の大阪空港、清水隆撮影

「終戦記念日」とは何か

ご先祖様の霊や、死後の世界というものの存在を信じている人も、信じていない人もいるだろう。

しかしその存在を信じない人であっても、「故人が見守ってくれている」と、ふと感じる瞬間があるのではないだろうか。

絶望のどん底から思いがけずに活路が開けたときや、あるいは何気ない日常で小さな幸せを感じられた時などだ。

そしてそう想えたことで勇気を貰い、体中に力が溢れてくる。

その瞬間、故人の魂が本当に実在するのかどうかは、もはや問題ではない。

想う限り、”かけがえのない人たち”は私たちの心の中に生き続けており、力になってくれるからだ。
きっと、その“想う気持ち” そのものを私たちは古来「霊魂」と呼び、心の支えにしてきたのだろう。

今回、保坂元1佐、田浦元陸将の2人からお話を聞けて感じたことは、まさにこの強さである。

2人の心には、失った仲間に対する愛情、そして殉職した全ての先人への深い敬意があふれている。

言い換えれば、「死ぬ覚悟」に真摯に向き合ってきたからこそ、「生きる覚悟」が固まり、その重い職責を果たせたということだ。

昔から、私たち日本人はその価値観を「武士道」と呼んでいる。

命の儚さと大切さを理解しているからこそ、1日1秒を大切に生き、自分と他者を大切にできるという価値観である。

翻ってみて、「終戦の日」の今日、私たちはどのように過ごしているだろうか。

国を想い戦死、あるいは殉職をされた先人に思いを馳せ、生きる意味を見つめ直した人がどれだけいるだろう。

先人の想いに寄り添えないのであれば、自分の人生をどう大切に生きるのか、受け取ったバトンの意味すらわからないのではないだろうか。

福江島沖で殉職されたパイロット、カンボジアで殉職された高田警視…。

そして先の大戦で国難に殉じた多くの先人を想い悼む日として、8月15日という日がいつか、本当に意味のある日になることを心から願っている。

「死ぬ覚悟」に真摯に向き合ってこそ初めて、責任を持って「生きる覚悟」が定まるのだから。