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耳元で自動翻訳ができるAI補聴器 インテル元副社長が手がけた「世界のベスト発明」

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自分用の最新鋭補聴器を手にするスターキー社のアーチン・ボーミック最高技術責任者
自分用の最新鋭補聴器を手にするスターキー社のアーチン・ボーミック最高技術責任者=米カリフォルニア州、大牟田透撮影

博士が耳の後ろにひょいと手をやると、指先ほどの装置が手品のように現れた。「だいたい驚いてもらえるね」。そう言って、向かい合った記者にほほえんだ。

聴力に問題はないが、博士は一日中、自社の最新補聴器「エボルブAI」を使っている。就寝中に充電すれば、連続20時間動く。製品を自らテストする意味もあるが、近距離無線通信のブルートゥースを使った便利なヘッドセットとして、電話に出たり、オーディオブックや音楽を聴いたりしているという。小さくて、耳につけていても目立たない。

スマートフォンを介してインターネットと接続すれば、聞いた言葉の自動翻訳や文字起こし、さらには秘書のように様々な問い合わせに答えてもくれる。

実演してみせてくれた。エボルブAIを軽くたたいてから「日本の首相は誰?」と口にすると、10秒後、「耳に返ってきた答えによれば、フミオ・キシダだ。合ってる?」と続けた。

「例えば、うちの庭師のスペイン語を英語に訳して聞かせてくれるし、スマホ画面に文字起こしもしてくれる」

スターキー社の最新鋭補聴器「エボルブAI」は小さくて目立たない
スターキー社の最新鋭補聴器「エボルブAI」は小さくて目立たない=スターキー・ジャパン提供

3次元センサーも内蔵し、歩数や運動量を測ってスマホに送れるほか、転倒してすぐに起き上がれないと、事前に登録した家族などに知らせることができる。

音を集めて大きくして聞こえやすくする、というのが補聴器の基本的な働きだが、音をただ大きくしただけでは用をなさない。音の高低でも聞こえ方は人により千差万別だし、雑音は抑え、聞きたい音だけを本人が聞きやすい大きさにするといった繊細な音処理が求められる。

聴力は時とともに変わるから、従来は、販売店での頻繁な調整が欠かせなかった。わずらわしくて、買ったもののしまい込んだきり、という人も少なくなかったようだ。

しかし、高性能ICチップを搭載したエボルブAIは、AIが周囲の音環境を72兆ものパターンと照合し、最適と予測する音処理をして耳元に届けるという。

聞き取りにくいと思えば、その場で補聴器をトントンとたたくだけで、AIがすぐに何度でも調整を試みる。コロナ禍で聞き取りにくさが増したマスクごしの声にも対応した。

別売りのリモートマイクやピンマイクなどと無線でつなげば、最長20メートル離れた場所の音声に耳を傾けたり、テレビなどの電子機器から直接、鮮明な音声や音楽を聴いたりできるようにもなった。さながら耳の出張だ。

ボーミック博士は、インテルで副社長として知覚コンピューティンググループを統括していた2017年、スターキーに転じた。スターキーの創業会長ウィリアム・オースティンに口説かれてのことだった。最初は正直ぴんと来なかったが、数日話すうちに、AIなどの技術を人のために使う分野として、補聴器の大きな可能性に気づいたという。

「先進技術をとり入れれば、三つのことができると確信した。何より第1は聞きたい音を的確に届けること。第2に聴力にとどまらず、健康を維持、増進させる機器へと進化させること。そして、第3に、いつも耳元にいてネットとつながる『秘書』や『助手』にすることだ」

18年に発売した最初のモデルが、米タイム誌の「2019年ベスト発明100」に選ばれた。補聴器メーカー各社が聞こえ方の改良や小型化などを進めるなか、思い切った機能の拡大が注目され、医療機器業界からも情報技術業界からも様々な賞を受けてきた。

「詳しい数は公表していないが、全世界で数百万台売れた。スターキーでこれまでで最も成功した製品だ」と胸を張る。

補聴器「エボルブAI」は、「耳あな型」「耳かけ型」など、さまざまなタイプが用意されている
補聴器「エボルブAI」は、「耳あな型」「耳かけ型」など、さまざまなタイプが用意されている=スターキー・ジャパン提供

補聴器自体、認知症対策として利用に期待が広がっている。

英医学誌ランセットの専門委員会が20年に発表した論文によると、中年以降の聴力の低下が現在わかっているなかで、最大の認知症リスク要因だった。

喫煙や脳外傷などよりも大きい。聴覚による刺激が減ると、認知機能や社会活動が低下し、それがますます会話など聴覚を刺激する機会を減らすという悪循環を招くとみられる。

早くから補聴器をつけると認知症の発症が減ったとの報告もあり、日本政府の認知症施策推進総合戦略も、危険因子に難聴をあげている。

エボルブAIは、1日につけていた時間や会話の時間、体験した音環境の多様性などから「脳の健康スコア」を示す機能も持っている。歩数や運動量をもとにした「身体の健康スコア」とあわせて、遊び感覚で健康維持につなげてもらおうという工夫だ。

従来の補聴器は目立つこともあって、本来つけた方がいい人も敬遠しがちだった。各国で高齢化が進み、世界の認知症患者が現在の約5740万人から50年には1億5280万人に急増するとの予測もあるなか、人目を引かず、誰もがほしがるような補聴器が安価に手に入るようになれば、恩恵を受ける人たちのすそ野は広がる。朗報に違いない。

エボルブAIはすでに日本でも発売されている。すべての機能を備えた最上位機種は価格が130万円を超えるが、もはや補聴器と呼ぶことに抵抗を覚える。この先、どこへ向かうのか。

「耳は体温や脈拍、血中酸素飽和度などのデータをとるのに最適だ」とボーミック博士は話し、スタンフォード大医学部と共同で新たな身体モニタリング機能を開発中だと明かした。

補聴器「エボルブAI」とリンクしたスマホ画面
補聴器「エボルブAI」とリンクしたスマホ画面=スターキー・ジャパン提供

転倒してから通知するのではなく、事前に転倒リスクの高まりを検知し、医療機関の受診を勧めるようなAIシステムだという。「自動翻訳も、こんな小さな機器で十分にできるようになれば、言語の壁を取り払い、人類の相互理解につながる。まだ歩み始めたばかりだが」

博士はいう。「インテルでは、機械やコンピューター、ロボットが周囲の環境をよりうまく知覚し、世界をより理解することをめざして技術を開発していた。今は、人々が世界をより感じ、理解する手助けをしている。使う技術は同じだが、苦しんできた人たちの喜びに触れる満足感はまったく違う」