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あのとき私は10代だった 同時多発テロから20年、アメリカの若者が今も背負う影

World Now 更新日: 公開日:
米同時多発テロから20年を迎え、世界貿易センタービルが崩落した現場には多くの市民らが訪れた=2021年9月11日、米ニューヨーク、藤原学思撮影

■英語の原文はこちらで読めます

9.11のかすかな記憶

8月、土曜のある朝のこと、僕はマンハッタンのダウンタウンにある追悼広場「9.11メモリアル」にいた。

灰色の空の下、青々とした木々に囲まれた道を、両親とともに歩く。

街は静かで、暖かかった。かつてツインタワーが立っていた場所にはいま、追悼碑が設けられ、それに囲まれるように、水が絶え間なく降り注ぐ人工池がある。僕は碑に刻まれた犠牲者の名前や、小さな星条旗、赤や白のバラを見つめていた。

崩落したビルがあった場所には、犠牲者の氏名が刻まれた追悼碑が設けられている=2021年9月11日、米ニューヨーク、藤原学思撮影

父は、その場にじっと立っていた。マスクをしていたこともあり、父が何を考えていたのか、あるいは何も考えていなかったのか、見た目からはわからなかった。2001年のあの日、父は現場近くのビルで働いていた。そして、ツインタワーが崩れていく様子を、その目で見ていたのだった。フロアというフロアが文字通り崩れ落ち、煙とがれきが街を覆ってゆく、そのさまを。

追悼碑には、赤や白のバラが供えられていることも多い=2021年9月7日、米ニューヨーク、スペンサー・コーヘン撮影

僕はマンハッタンで育った。現場からは北に約10キロ。当時は7歳で、ツインタワーそのものについては覚えていない。

かすかに記憶しているのは、あの日以来、ニューヨークを包んだ恐怖やにおい、混沌だ。それはつまり、建物の残骸や石材、それらが無秩序に積み重なった現場であり、鉄道の駅や空港、大勢の人が集まる場所に必ず見られた、制服を着た兵士や警官だった。

米同時多発テロの犠牲者を悼む軍人やニューヨーク市消防局の職員=2021年9月7日、米ニューヨーク、スペンサー・コーヘン撮影

僕は「9.11の影」とでもいうべき時代に育った。米国にとって9.11はトラウマであり、その前と後では決定的に異なる。

僕たちは子どもだった。いまや大人になった。若い年代はどのような道を歩んできたのだろう。それを知るために、3人の米国人と会話を交わした。

■父と伯父がツインタワーにいた

あの朝、3人はみな、それぞれ別の教室にいた。リアルタイムで未曽有のテロについて見たり、聞いたりした。そのときの経験が、20年が経ってなお、影響を与えている。それは、僕を含めてすべての米国人にとってあてはまることであり、3人の20年はある意味で、多様なこの国の縮図でもある。

ケイトリン・ランゴーンは当時、ニューヨーク・ロングアイランドの7年生(日本の中学1年生に相当)で、12歳だった。テロについての情報を知った教師は、教室の前方に立ち、大きく息を吸い込んで、世界貿易センター(WTC)ビルに飛行機が突っ込んだと告げた。

ただ、ランゴーンは心配していなかった。1945年には、エンパイアステートビルに小型機が誤って衝突する事故があった。「まあ、そのようなものだろうと考えていた」。ランゴーンが振り返る。「悲劇ではあるけれど、きっとどうにかなるだろう、と」

父のトーマスさんの写真を持つケイトリン・ランゴーンさん=2021年8月23日、米ニューヨーク州ウィリストンパーク、藤原学思撮影

彼女の父のトーマス(当時39)はニューヨーク市警の緊急救命部隊に所属し、ボランティアの消防隊員でもあった。1995年にオクラホマシティーで連邦政府庁舎が爆破する事件があった際にも現地に赴いている。ランゴーンは、救助に携わる人びとが、いかに迅速かつ組織的に動くのかを理解していた。

一方、学校では、クラスメートの女子がうろたえていた。父親がツインタワー内で働いているといい、ランゴーンは彼女を慰めた。「私のお父さんみたいな人が行っているはずだから」「救助隊の人たちとか、消防士さんがビルの中に入って、あなたのお父さんたちを助けるはず」。こうも言った。「大丈夫だから」

父のトーマスさんと弟とともに写真にうつるケイトリン・ランゴーンさん=1996年撮影、本人提供

ランゴーンの伯父、ピーター(当時41)もまた、ニューヨーク市消防局の消防士だった。だが、ランゴーンは父と伯父がツインタワーにいることをはっきりと知っていたわけではない。学校が終わり、自宅に着いて初めて、それを知った。母親は落ち着かない様子だった。「心配しないでよ、ママ。きっと大丈夫だから。いまがほんとに大変なだけだから」

その日の夜、母はトーマスが点呼の場に来なかったことを知った。父は伯父とともに、ビルの崩壊当時、中で救助活動をしていたという。数日が過ぎ、数週間が過ぎ、彼らが帰ってくることはないと、徐々に現実味を持って理解した。

父も伯父も、やはり亡くなっていた。

それでも、彼女の人生は愛すべき家族、親族に支えられた。2人の通夜では、彼らの人生についての話を聞かされた。「実際の苦しい状況とは対照的に、彼らの人生を祝福するようだった」と振り返る。

米同時多発テロが起きた現場にある追悼碑には、トーマス・ランゴーンさんの名が刻まれている=2021年8月27日、米ニューヨーク、藤原学思撮影

ただ、それからの年月にランゴーンが目にしたのは、米国外での対テロ戦争であり、激しさを増していく国内での諜報活動だった。9.11は高度に政治化され、2977人が亡くなった事実に対し、人びとは鈍感になっていった。「国家的に悲劇が、政治家がポイントを稼ぐための話題になってしまった。がっかりしたし、やりきれなかった」

32歳になった彼女は言葉を続ける。「2000年代を、私は子どもとして、十代として過ごした。愛国者法ができ、イラク戦争があり、アフガニスタン戦争があった。私たち米国は、他者に対してどれほどひどい扱いをしたことか」

歴史の授業では、市民の自由と国家の安全保障のはざまで揺れ動く米国について学んだ。海外での戦争が絶え間なく続く中、米国に暮らすムスリム(イスラム教徒)の権利が失われているように見えた。そして、それらは「報復」の名の下に行われているように感じた。

彼女は言う。「私の父や伯父の死を利用して、さらなる暴力をふるおうとしている人たちを見るのは本当に苦しかった。納得できなかった」

実家で父の思い出を語ったケイトリン・ランゴーンさん=2021年8月23日、米ニューヨーク州ウィリストンパーク、藤原学思撮影

ワシントン・アンド・ジェファーソン大の准教授で、”The War of My Generation”(私の世代の戦争)の著者でもあるデービッド・キーランは「9.11は若者が米国の外交、米軍を考える上で欠かせない、一連の政治的課題を提起した大きな出来事だった」と語る。

また、彼が指摘したのは、9.11は若年層にとって、米軍の活動や採用、米国の外交の影響の大きさを考える契機になった、ということだ。「ムスリムや中東系、南アジア系の米国人がしばしば監視と差別の対象になっている時代において、どのすればあらゆる人にとって包摂的な環境をつくり出せるのか。9.11は、そうした問題も突きつけたのです」

米同時多発テロから20年を迎え、世界貿易センタービルが崩落した現場を訪れた親子=2021年9月11日、米ニューヨーク、藤原学思撮影

■高まる「愛国心」に包まれて

9.11の残骸からうまれた疑問は、現在の米国の若者世代を形作っていった。

中西部オハイオ州。ネイト・エックマンが暮らしていた地区は、テロから数カ月間、数年間にわたり、「愛国心」が高まった。多くの若い米国人は、9.11後の米国を覆った熱に、自らも包まれていた。ピュー・リサーチ・センターの調査では、米国人の77%が報復としての軍事力の行使を支持した。予備役として米国のあらゆる軍に登録した若者もいた。

「誰が卒業生総代だったか、誰が私の通っていた公立校から良い大学に行ったか、そんなのは覚えていない」。現在29歳になったライター、エックマンは言う。「ただ、誰が軍隊に入ったか、それはわかる。英雄視され、歓迎されたから。コミュニティーの中で、彼らは大きな誇りとして見られていた」

彼が言うには、軍の採用担当者は、特に目的もなさそうに車で街を走っていた。「息子よ、国のために尽くすことについて、考えたことはあるか?」。若者が公園でバスケットボールをしていたり、庭で雑草を抜いたりしていると、そんな調子で話しかけるのだという。エックマンの学校には、毎週金曜、昼食の時間にやってきた。「陸軍の採用担当者が、最もアグレッシブだった」と彼は振り返る。

9.11が起きた直後、国中に広がった「愛国心」に駆り立てられてか、軍への新規入隊者が若干増加した。だが、オハイオ州のエックマンの地元で最も大きかった変化は、精神面だった。軍は若い米国人にとって、市民であるとは何か、そのメリットとは何かを考える際に、中心にくる存在になっていったのだった。

エックマンは言う。「兵役に就くことについて、イエスと言いたいか、言えるか。それが価値を決めるのだと、心の中で理解しながら成長してきた」。エックマン自身もかねて、海兵隊員になるのだろうと考えていた。「ただ、果たして無事に兵役を終えられるのかはわからなかった。だから、もし制服を脱ぐことができない可能性があるならば、地元のオハイオにこだわらず、何か違う景色を見てみたいと思っていた」

彼は十代後半を日本で過ごした。乗鞍岳(長野県松本市)にほど近いリゾート地のロッジで働いた。そして2011年3月、東日本大震災を経験したのだった。

東日本大震災後、ボランティアに携わったネイト・エックマンさん=本人提供

多くの外国人が日本を去る中、エックマンは日本にとどまり、東北に赴いて清掃のボランティアに携わった。そこで、米国の海兵隊員を目にする。「海兵隊員が到着するやいなや、作業効率は上がった」と記憶している。米軍の人道支援活動を体験したのは、これが初めてだった。

エックマンはその後、海兵隊員になった。イラクやアフガニスタンこそ行かなかったが、中東など13カ国を訪ねた。

エイト・ネックマンさんがボランティアに携わった現場=本人提供

9.11から、20年。「アフガニスタンで戦争をすることについては、正当だったと信じている」。一方、軍の制服にそでを通しながら、ゆっくりと、それでいて確実に、失望感が募っていった。

「なにか、そういう瞬間があったわけではない」。だが、米国外を転々とする中で、米国の外国部隊がいかに尊敬され、おそれられているか、そして自分たちの存在がいかに強大な影響を現地に及ぼすのか、それを目の当たりにした。それは、必ずしも肯定的なものではなかった。また、米軍の存在の意義がほとんどないように思える国に赴いた軍人が子どもの誕生に立ち会えないなど、個々人が背負う犠牲についても考えざるをえなかった。

そして彼は、こう悟った。「私たちがここにいる必要はまったくない」と。

米同時多発テロから20年を迎え、追悼碑に刻まれた犠牲者の氏名を指でなぞる市民=2021年9月11日、米ニューヨーク、藤原学思撮影

■移民の子、続く痛み

2001年9月11日、ドニシュ・シディキはロングアイランドで暮らす10年生(高校1年生)だった。高校のトイレの窓から、マンハッタン上空が厚い雲で覆われているのを見た。「怖かった。ナーバスになった」と彼は言う。「一体なにが起きているんだ」

シディキはいま、36歳になり、米南部で地域のかかりつけ医として働いている。当時彼が「怖かった」のは、テロそのもののほかに、自らがムスリムであることだった。「ムスリムのテロリストによる攻撃とみなされれば、最悪だ。その先になにが起きるのか、それは明白だった」

9.11後、「反ムスリム」の波が国を覆った。連邦捜査局(FBI)の統計によると、2001年にあったムスリムに対するヘイトクライムは481件で、前年よりの28件から大幅に増加した。シディキもヘイトクライムや偏見について耳にした。「家族や友人のコミュニティーは恐怖に包まれていた」という。

シディキのような移民の子どもたちにとって、9.11は、米国における安心・安全といった感覚を一変させた。「将来の世代のため、より良い生活を送るため、親も、自分も米国にきた。それが突然、犯罪者、殺人者として見られるようになった」。9.11の直後、連邦議会は愛国者法を成立させ、それはしばしば、ムスリムの米国人を監視の標的にする言い訳として使われた。

米同時多発テロの発生現場近くで、星条旗を掲げる男性=2021年9月11日、米ニューヨーク、スペンサー・コーヘン撮影

9.11後にムスリムや南アジア系、中東系として米国で生きるということは、何を意味するのか。カリフォルニア大デービス校でアジア系米国人の研究をし、”The 9/11 Generation”(9.11世代)の著者でもあるスナイナ・マイラ教授は「対テロ戦争というレトリックによって形成された世界に、完全に囲まれて育つということだ」と指摘する。「イスラムを『反米』としてみる我々に、賛成か、それとも反対なのか、と」

その後10年、シディキは米国内外を渡り歩いた。カリブ海の国で医学校に通った後、米国で医師になるための研修を終えた。

ムスリムに対する偏見はなくならなかった。むしろ、年を追うごとにさらに強まっていったとシディキは感じている。2010年、WTCビルの跡地近くにムスリムのコミュニティーセンター兼モスクを建設する計画が持ち上がった際、それは顕在化した。結局、計画は頓挫したまま、いまに至っている。

米同時多発テロの発生現場付近=2021年9月11日、米ニューヨーク、スペンサー・コーヘン撮影

「ヒジャブを着た姉や母と一緒に歩く、ヒゲを生やし、ブラウンの肌の人間としては、9.11後の10年間よりも、その後の10年間の方が、より怖かった」不安は増す一方で、道を歩くときに、常に背後を気にかけるようにもなった。

レイシズムは、見分けがつきづらく、それでいてはっきりとしている場合が多い。研修の初日、指導医には出身と、9.11についての意見を尋ねられた。「ビルが倒壊するのを見てどう思ったんだ、と聞かれた。それはまるで、私が悲しみや怒りといった感情以外のものを持ったのではないかと、そう言われているようだった」

あの日、シディキは知人を失っている。その痛みはまだ、消えない。

「映像や写真を見る度に、9.11は私の胸を締め付ける」と彼は言う。「でもいまは、もっと強い怒りを覚えている。あの日に起こったことだけが理由じゃない。その後に起こった、あらゆることが理由なんだ」


(スペンサー・コーヘン、訳:藤原学思)