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オーストラリア日系ハーフの生き方から見えてくる、多文化に生きるためのヒント

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シドニーの博物館に勤めるステラ・パルマー=小暮哲夫撮影

■わたしは何者? 若者たちが語る

そもそも、日系ハーフの人たちは、豪州に何人いるのか。その数を調べた統計はないが、手がかりを見つけた。日本の外務省の海外在留邦人数調査統計によると、2019年10月現在で豪州に住む日本人は10万3千人あまり。米国と中国に次いで国別で3位だ。そのうち、企業の駐在員や留学生のような長期滞在者ではなく、永住者に限ると、約5万9千人。これは米国の次に多い。

豪州の国勢調査(16年)も調べてみると、「日本生まれ」と答えた人は約4万2千人。「母が日本生まれ」は約6万人、「父が日本生まれ」が約4万4千人いた。

永住者の子の多くが彼らと考えれば、その数は数万人になるとみられる。これはおそらく、日本国外では屈指の多さだ。しかも、彼らは日系人社会の第2世代で、3〜6世代までいる米国やブラジルなどと比べても新しい。

最近、民族や人種が違う両親から生まれた人たちは「ダブル」「ミックス」とも呼ばれるが、豪州では「ハーフ」に、ネガティブな響きはあまりない。若者たちが自ら「ハーフィー(Halfie)」と、くだけた感じで呼ぶこともある。単に「日系」と言われることも多い。

ちなみに、今夏の東京五輪にも豪代表で出場している。母方に日本のルーツがあるBMXレースのサヤ・サカキバラ(22)や、父が日本生まれの重量挙げのエリカ・ヤマサキ(34)らだ。

東京五輪のBMXレーシングに出場後、取材に応じるサヤ・サカキバラ=7月29日、北村玲奈撮影

そんな彼らに5〜7月、シドニーでじっくり話を聞くことができた。

■「ハワイアンじゃなかったの?」

「どこから来たの?」

地元の博物館に勤めるステラ・パルマー(25)は、この問いをこれまでの人生で幾度となく耳にしてきた。

ワーキングホリデーでシドニーに暮らしていた日本人の母が英国系のオーストラリア人の父と出会い、ステラが生まれた。ミドルネームのツバサ(翼)はふだん使わない。名前だけなら「白人」のようだけど、外見は少し違うから、「どこ?」と相手が当てようとすることもある。この種の質問、豪州では民族・文化的なルーツを尋ねる意味であることが多い。時に差別的なニュアンスを含むが、「友達の一人は、私をずっとハワイアンだと思っていた」とステラは笑う。

シドニー中西部の小学校時代、英語が母語でない子ども向けのESL(第2言語としての英語)のクラスに入れられたことがある。先生が外見から間違えたのだ。「今は笑い話だけど、当時は戸惑った。私はこの国で生まれ、オーストラリア人のアクセントの英語を話すから」

でも、学校で差別を感じたことはほとんどない。アジア系や太平洋の島国の出身など白人でない子が多数派で、みな自らの民族的な背景をオープンに話した。

ステラ・パルマー=シドニー、小暮哲夫撮影

中高で通ったシドニー北部の学校は生徒の8割が白人だった。日系だと言うと、クラスメートからは「クールでファッショナブルだと思われた」。街ですれ違いざまに、見知らぬ人に差別的な表現で「中国人」と言われても、気にしなかった。

ただ、アイデンティティーはいつも揺れていた。母の実家がある東京に行けば、「白人」と見られ、「金髪で青い目が美しい、とすり込まれてもいた」。でも、中高生になると、級友と比べ「どうして自分の髪は黒くて、目の色も体形も違うんだろう」と思った。

母に日本語で話しかけられ、「私はオーストラリア人よ」と反発して英語で返したことも。アイデンティティーを「白か黒か、二分法で考えていた」。

ハーフという自分を自然に受け止められるようになったのは、大人になってからだ。「自分は二つの文化を持つハイブリッドで、すばらしいことだ、と今は言える。昨日の夕食は、母が作ったおでんだったから、今日はとても幸せ」

反対に、「自分は、どこから来たの?とはあまり聞かれない」と話したのは、公務員のデックラン・フレミング(22)だ。母は日本人で父は白人のオーストラリア人だが、「外見からみな自分をアジア系だと思うから。自分のアイデンティティーは、と尋ねられたら、シンプルにオーストラリア人が半分、日本人が半分と答える」。自然体な様子が印象的だった。

デックラン・フレミング=シドニー、小暮哲夫撮影

日系ハーフだから嫌な思いをしたという経験はあまりない。思い出すとすれば、小学校で日本の捕鯨が話題に出たとき。豪州は強硬な反捕鯨国。同級生たちが「自分のことを変な目で見た」。

アジア系とみられるとき、数がはるかに多い中国系とみられることが多い。尋ねられて、日系だというと相手の態度が変わる。日本のポップカルチャーの印象がよく、関心を持ってくれるようだ。「でも、中国系の人たちに対してすまない気持ちになる」と話した。

■「中間点」でバランスを取る

シドニーの大学に通うトム・ディッキンソン(24)は、187センチの長身で、法学部で学ぶかたわらラグビーなども好むスポーツマンだ。彫りが深い顔立ちで一見、アジア系とは思えない。

父は英国生まれの移民で、豪州で育った。日本で英語講師をしていて母と知り合い結婚、トムが生まれた。生後3カ月でシドニーに移り住んだトムは、子どものころ日豪英3カ国のパスポートを持っていた。

今は豪英の二つになったけれど、トムは言う。「自分はまず第1にオーストラリア人。そして日本にルーツを持つ。英国のルーツもあるが日本寄りだと思う」

トム・ディッキンソン=シドニー、小暮哲夫撮影

毎年、学校の長期休みに母の実家に里帰りし、地元の小中学校にも通った。学校の玄関で靴を脱ぐ。掃除の時間がある。豪州との違いを感じた。目上の人に敬意を表す文化や、人との間に一定のスペースを保つ振る舞いが身についた。

だからなのか、今付き合っている彼女から、「こんな人に会ったことがない」と言われる。「日本語で言えば、こんな『マジメ』な人はいないと」。こんなに清潔で、整理整頓できる人は豪州にはあまりいないという意味だ。

だけど、父からの影響も自覚している。「豪州はもっと自由で平等を重んじる。自分は、この(日豪の)二つの中間点でバランスを取ってきた」

住みやすいのは豪社会だと思う。「見た目や話し方から、におい、着ているものまで、何も心配することはないから」

■親は「ワーホリ」世代

彼らの親世代が豪州に移住した大きな契機の一つが、ワーキングホリデー(ワーホリ)だ。日本が1980年に初めて協定を結んだのが豪州で、今でも最も人気の渡航先だ。新型コロナウイルスの感染防止のために外国人の入国が制限される前は、毎年8千〜9千人の日本人が滞在していた。

94年からワーホリの仲介支援業を営むアイエス留学(シドニー)の社長、田中和弘(55)によると、90年代はハングリー精神のある若者が多く、広大な豪州を何カ月も車やバイク、自転車で旅する「ラウンド」が人気だったという。

シドニー五輪があった2000年以降は豪州への注目が高まり、人数も右肩上がり。休学して来る学生が目立ち始めたのが05年ごろで、10年以降は現地企業でのインターンの希望が増えた。

他方、どの時代も日本での環境に居心地の悪さを感じてリセットしたいと来る人がいた。1〜3年間の滞在後、一部は移住を選ぶ。結婚相手を見つける人も珍しくない。「パートナービザはどう取れますか」。こんな相談をコロナ前は毎週のように受けていた、と田中は言う。

豪クイーンズランド大学で豪州の日系ハーフを研究しているイーファ・ウィルキンソン(23)は、18〜29歳の20人以上への聞き取りから、典型的な人物像を次のように分析する。

オーストラリア人の父と永住者の日本人の母の間に生まれ、子どものころは1、2年に1度、母の一時帰国で日本に行き、滞在中に日本の小中学校に通う場合もある。日本語は、家で母親と交わす日常会話程度はできるが、漢字が壁になる。周囲からの「日系」へのポジティブな受け止めを認識すると同時に、多くが自身をアジア系オーストラリア人、ともとらえている――。まさに、私が話を聞いた若者たちと重なる部分が多い。

ウィルキンソンは、都市部での非白人の増加や多文化社会の大切さを教える学校での教育が「ハーフたちが受け入れられる助けになっている」と指摘する。

■「完全な日本人」にはなれない

彼らの目に日本社会はどう映るのか。日豪の両方で暮らしたことのあるエンダ・セヤマ=ヘネガン(25)は言う。「日本では、日本語を話し、歴史やあらゆる文化行事も知っていないと、日本人として認められないように感じる。自分は全部の項目にチェックを入れられないから、『私はハーフ』という感じです」

エンダ・セヤマ=ヘネガン=シドニー、小暮哲夫撮影

英国人の父と日本人の母を持つ。5歳のとき東京からシドニーに移り住み、豪国籍を得た。中心部に近い小学校の級友たちはアジア系から中東系、先住民(アボリジナルピープル)、欧州系までいて、他人との「違い」は当然だった。

中高時代は父の仕事で再び日本へ。インターナショナルスクールに通いながら、多感な時期を東京で過ごした。友達と英語で話していたからか、街を歩けば自然と目立った。「かわいい」「脚が長いね」とほめられた。電車の中ではものを食べない、といった豪州と違うマナーを意識して守った。でも、常にこう感じていた。「自分は完全に日本人にはなれないだろう」

大学の進学先はシドニーを選び、単身で戻ってきた。豪州の方が快適だなと思った。大学の寮では、様々な背景を持つ人たちが住んでいた。

建築関連のエンジニアになった今、日本で身についた「勤勉さや、細心の注意を払う姿勢は役に立っている」と思う。

それでも、とエンダは言う。「自分は何者か。その答えは、いつまでも見つからないと思う。半分が日本人、半分が英国人、でも、オーストラリア国民です」(つづく)

【つづきを読む】ハーフが特別でないオーストラリア、昔は違った 先輩たちが語る差別体験

■移民を成長の原動力に

先住民が住んでいた豪大陸に英国から入植を始めたのは1788年。豪連邦が成立した1901年、政府は非白人の移民を排除する白豪主義を採用した。

英国系中心の白人国家、という姿は第2次大戦後に変わり始める。背景には経済的な事情があった。このとき、人口は約750万人。戦後の成長に労働力が必要で、50年代初めにかけて東欧や西欧に移民を求めた。

60年代にかけては南欧のイタリアやギリシャから受け入れた。彼らは「ウォグ(wog)」と差別的に呼ばれもした。

一方、日本から豪州への移民の歴史は戦前にさかのぼる。19世紀後半から20世紀前半にかけて真珠貝を採る潜水士として来た人たちがいた。白豪主義下でも、その技術と勤勉さから例外として就労が認められた。数千人いたが、太平洋戦争が起こると収容所に入れられ、戦後に日本へ送還された。

50〜60年代には連合軍の一員として日本に駐留した豪軍兵士と結婚した女性の移住が認められた。「戦争花嫁」と呼ばれたが、約650人にとどまった。

白豪主義を廃止した70年代半ば以降は、アジアや中東などからの移民が増え続ける。2016年の国勢調査によると、今や「自身か、両親のうち少なくとも一方が外国生まれ」が、人口2500万人の49%を占める。

政府の18年の報告書によると、移民の受け入れは20〜50年に毎年、GDP(国内総生産)の成長率で0.5〜1ポイント貢献すると見込まれる。10年代以降の成長率は年2〜3%ほどだから、決して小さくはない。

移民の大半は若く、高い技能を持った場合も多い。少子高齢化が進む社会の成長の原動力として期待されている。