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「金正恩氏は絶対的独裁者でない」北朝鮮で2度大使を務めた外交官が見た、権力の構図

北朝鮮インテリジェンス
朝鮮労働党の会議で3月6日、演説する金正恩総書記。朝鮮中央通信が配信した=朝鮮通信

シェーファー氏は2007年から10年までの期間と、13年から18年までの計2度にわたり、北朝鮮大使として活躍した。同氏は「金正日でさえ、軍や他の強硬派の願いを考慮に入れなければならなかった。金正恩の立場は、おそらく金正日よりもはるかに弱い」と指摘する。

今年1月の第8回党大会で改正された党規約第26条では、党第1書記のポストを新設。「党第1書記は党総書記の代理人だ」と明記したことも明らかになった。北朝鮮では、シェーファー氏が唱える、正恩氏は統治に必要なパーツの一つに過ぎないという「金正恩機関説」の流れがますます、強まっているようにも見える。

シェーファー氏が、金正恩氏の不安定な立場を確信した根拠として挙げたのが、「私の記憶に残った会話」だ。金正恩氏が2011年12月に権力を継承してから間もない頃、「朝鮮語を使う相手」と交わした会話だ。シェーファー氏は「相手はロイヤルファミリーについて語るとき、求められていた尊敬語を使わなかった」と語る。「金正恩は、(権力の継承によって)自動的にエリートからの尊敬と服従を得ることができなかった」と指摘する。

シェーファー氏の指摘を裏付ける別の情報もある。日朝関係筋によれば、同じ頃、日本政府も北朝鮮軍の将兵が交わした会話についての情報を入手していた。内容は、新しい指導者である正恩氏を馬鹿呼ばわりする内容だった。将兵らは、正恩氏の軍に対する統率力を疑い、未来を悲観していたという。

シェーファー氏は、金正恩氏が完全な独裁者と言えない背景に、権力継承を巡る権力闘争があったと証言する。「(金正日総書記が)2008年に脳卒中を起こしてから15年にかけて、我々は北朝鮮指導部内での権力闘争を目撃してきた」と語る。

「この闘争は金正日の後継問題と関係があり、人事や経済・国内政策の方向性、韓国との関係、12年以降の軍事費の大幅な増加などに及んだ」。同氏によれば、闘争の結果、強硬派が2016年までに主導権を握ったという。シェーファー氏は「(同年までに)全面的な北朝鮮の政策は固まった。それ以来、穏健派(対話派)はほとんど沈黙している」と指摘する。

トマス・シェーファー元駐北朝鮮ドイツ大使=本人提供

正恩氏への権力継承作業は09年前後から始まった。同年3月の最高人民会議(国会)代議員選挙で、「キム・ジョン」という名前の候補者が当選した。シェーファー氏は当時、後継者ではないかと推測したという。

金正日総書記は、国内経済の極度の悪化やソ連・東欧圏の崩壊を受け、軍が全てに優先する先軍政治を敷いた。軍の力は強まり、金正日氏自身、南北首脳会談の席で、韓国企業が入居する開城工業団地の開設を巡り、軍の説得に苦労した事実を明かしたこともある。

北朝鮮の「強硬派」「対話派」とはどんな人たちか。

シェーファー氏は、強硬派は主に軍や党組織指導部、秘密警察の国家保衛省などで構成され、国際社会との対話を拒み、核や弾道ミサイルによる武装強化を目指している集団だと説明する。「強硬派には、軍の幹部、人事や治安の担当機関、特に中央委員会の幹部が含まれるようだ。この部門は、すべての重要な人事決定に責任を負い、国家安全保障に関する権限を持っている」という。

一方、対話派は金正日氏の義弟である張成沢氏が部長を務めた党行政部や南北関係を扱う党統一戦線部、外務省などに多く、経済改革や国際社会との対話を目指している。

「指導層は多くの場合、金日成の同志だった先祖を持つ革命の家系から選ばれる。北朝鮮の階級制度では、これらの家族が最高なのだ。どのくらいの家族がそこに属しているかは明らかではない。メンバー同士につながりがあり、お互いを知っている人が多い。かなり小さなグループかもしれない。彼らの間には個人的および政治的な違いがあるかもしれないが、彼らはシステムを維持することに共通の関心を持っており、正統性の理由から、金王朝を続けることに共通の関心を持っている」

金正日総書記は、軍など強硬派が金正恩氏の権力を脅かす可能性があると判断。張成沢氏に命じ、軍や党組織指導部ら強硬派の力をそいでいった。シェーファー氏は金正日総書記も晩年、対話派にかなり重心を移していたとみる。金正日氏が脳卒中で倒れる1年半前の2007年2月、6者協議が非核化を巡るロードマップで合意した。当時、シェーファー氏も少なくない期待を抱いていたという。

トマス・シェーファー元駐北朝鮮ドイツ大使が発表した著作「金正日から金正恩まで」=本人提供

金正恩氏は11年末、父親の死に伴い、権力を継承したが、さきに紹介したシェーファー氏の言葉によれば、「金正恩は自動的にエリートからの尊敬と服従を得ることはできなかった」という。「父親の死後の数年間、金正恩の立場が弱かったことを示す実質的な兆候がかなり多かった」

金正恩氏は12年4月の演説で「人民のベルトを2度と締め上げるようなことはしない(飢えさせない)」と語り、経済に力を入れる考えを示した。

シェーファー氏によれば、強硬派は反発したという。正恩氏が13年3月、経済改革と核開発を同時に進める「並進路線」を発表した。北朝鮮の当局者は当時、シェーファー氏に対し、並進路線は事実上、軍事を優先させる路線への回帰を意味すると説明したという。

そして、張成沢氏は13年12月、国家転覆を図ったとして、正恩氏も出席していた党政治局拡大会議の場から連行され、処刑された。シェーファー氏は「張成沢の公開処刑は、金正恩の利益にならなかった。処刑は、ロイヤルファミリーのクオリティーだけでなく、金正日と金日成の判断への疑問を提起したからだ。なぜ金日成は、娘である金敬姫にそのような犯罪者との結婚を許可したのかという疑問だ」と語る。

2012年、北京を訪問した張成沢・朝鮮労働党行政部長(右から2人目)=北京空港、林望撮影

同氏は書籍のなかでも、強硬派による政治宣伝の意味が込められていたと説明。「そうでなければ、他の高官たちが遭ったように自動車事故で処理されたかもしれない」とした。

シェーファー氏は、こうした権力闘争のなかで、金正恩氏はほとんど主導権を発揮できなかったという。「何度か、彼(正恩氏)は意思決定プロセスをコントロールできない、場合によっては関与すらできないまま、重要な(政策決定の)動きに圧倒されたようだった」

権力闘争の影響から、北朝鮮の政策は強硬と対話の間で揺れ動いた。2013年に起きた開城工業団地の一時閉鎖、14年2月の南北離散家族再会、同年10月の黄炳瑞軍総政治局長や金養建党統一戦線部長らの訪韓などだ。

シェーファー氏は「これらの期間に起きた政治的コントロールの欠如は、金正恩が北朝鮮のプロパガンダが作ったようなリーダーでも意思決定者でもなかったことを示す最も重要な兆候と言える」と語る。15年夏に北朝鮮の木箱地雷爆発事件を契機に発生した南北の軍事的緊張と対話による解決についても「軍部が明らかに党の関連部門の意志に反して行動したとき、(正恩氏は)軍の行動を事後的に承認するだけだった」と説明する。

権力闘争の過程で、対話派は徐々に弱体化していった。党行政部は解体され、党組織指導部に吸収された。2014年秋に訪韓した金養建党統一戦線部長は15年12月、自動車事故で死亡した。その後を継いだのが、軍偵察総局を率いた金英哲氏だった。金英哲氏は開城工業団地の閉鎖などを狙った強硬派の1人だという。シェーファー氏は、米朝対話などを率いた姜錫柱副首相が16年5月に死去したことで、強硬派がほぼ権力を握ったと説明する。

その後、北朝鮮は弾道ミサイルの試射や核実験を相次ぎ実施し、緊張が高まった。金正恩氏自身は18年4月、板門店で韓国の文在寅大統領と2人きりで語り合った際には、「1年以内の非核化も可能だ」と語ったが、19年2月にハノイで行われた第2回米朝首脳会談では「寧辺核関連施設の廃棄」を繰り返すだけだった。米政府は当時、正恩氏に正確な情報が伝わっていなかったとみている。強硬派が支配したエリート層が正恩氏に譲歩を許さなかったとの見方もある。

シェーファー氏は「名目上、金正恩は金正日の後継者であり、間違いなく彼は権力を分け与えられている。だが、彼が唯一の支配者ではないことも強く示している。彼はおそらく北朝鮮で最も権力を持った人間だとは言えない」と語った。

シェーファー氏によれば、現在の北朝鮮で主流派と言える強硬派は、国際的な関係を遮断することに躍起になっている。バイデン米政権の北朝鮮政策はまとまったが、北朝鮮は沈黙を保っている。

Thomas Schäfer 1952年、西ドイツ(現ドイツ)・オルテンブルク生まれ。81年、西ドイツ外務省に入省し、主に軍備管理問題に取り組んだ。香港、ソウル、グアテマラなどに勤務した後、200710年と1318年の2度にわたって駐北朝鮮大使。18年に退官した。