ブドウ畑を抱く丘の上で、1人の女性が見知らぬ1人の男性と向き合って席に座った。数ヤード(1ヤード=91センチ余)先に立つ男性は、コントラバスを抱えながら、無言で女性を見つめた。女性も黙ったまま1分間、その視線を受けとめようとした。
しかし、視線を合わせ続けるのはつらかった。
それまでは、何週間も画面ばかりを見つめていた。ほとんど一人だった。それと比べて、この日の人との接触は、どこか生々し過ぎて奇妙に感じられた。
30秒か40秒後には、耐えきれずに視線をそらした。
すると、男性は楽器の弓をかざした。低音の調べが、空気を震わせた。女性の緊張も、解け始めた。
流れてきたのは、イングランド民謡「グリーンスリーブス」の編曲だった。
この曲が何なのか、その由来も女性にはピンときた。まるで夢でも見るように、それは人生の一時期を過ごしたイングランドへの思いと重なった。
すると、突然、曲に圧倒されている自分を感じた。
持続可能なエネルギーの研究グループで、時事評論を担当しているが、この2カ月間はロックダウンの暮らしが続いていた。所属するアマチュア合唱団の練習は中止に。行こうと思っていたコンサートは延期になった。
しかし、今はドイツ南西部の中核都市シュツットガルトを見下ろすこの丘で、演奏の名手が曲を奏でてくれている。クラウディア・ブルスダイリンス(55)ただ一人のために。
「自分は、受けとめられている。素直にそう感じた」とブルスダイリンスは、後に振り返った。
新型コロナというパンデミックが強いた社会的な制約を逃れるのに、文化団体はインターネットに頼ることが多かった。博物館は、オンラインで展示パネルを見せた。劇場は、自分のサイトのストリーミングで公演を流した。オーケストラは、過去の人気演目をアップロードした。
ドライブイン方式の活用もあった。チェコでは、役者が駐車場の車に向かって演じた。ドイツでも、ミュージシャンやディスクジョッキーが駐車場に登場した。
外出制限が緩和されるようになり、コンサートホールに戻る動きもいくつか出始めた。しかし、客席にはソーシャルディスタンスの大きな隙間が目立った。
もっと人と人との触れ合いを――地元州政府の助成を受けるシュツットガルトの二つのオーケストラは、違う試みに挑むことにした。シュツットガルト州立管弦楽団と南西ドイツ放送交響楽団だ。
間を隔てる車のフロントガラスは無用だ。ほとんどガラガラの大講堂に客がポツリと座っていたり、コンピューターの画面を見つめたりしているのもおかしい。
何か、もっと心に直接訴えられる方法はないか。それも、感染のリスクを生じさせずに実現せねばならない。
答えは、1対1の連続コンサートだった。1人の楽団員が、1人の聴き手のために奏でる。言葉は、一切交わさない。
ネットで申し込む。演奏時間は10分。会場は、市内外の27カ所に設けられた。(訳注=改修工事で)使われていないシュツットガルトの空港。画廊もあれば、個人の別荘の庭も。それに、ブドウ畑の脇のテラスもあった。そう、ブルスダイリンスが「グリーンスリーブス」を聴いたところだ。
聴き手は、曲目を知らされずに来る。演奏者も、楽器も分からない。ただ、演奏者の前に座り、視線を60秒合わせるように求められる。
それから、10分の演奏が始まる。2、3曲になることもある。
演奏者は、何曲か準備してくることが多い。しかし、実際の曲目は、その場で決める。ブルスダイリンスの場合は、2曲目にバッハの無伴奏チェロ組曲第1番が加わった。
終わると、聴き手は拍手することもなく立ち去る。多くは、無言のままだ。無料だが、コロナ禍で収入を失ったフリーの演奏家を支援する基金に寄付することができる。
実は、この「1対1コンサート」には先例がある。2019年に(訳注=有名な修道院がある)ドイツ東部のフォルケンローダで開かれた夏の音楽祭で、初めて登場した。その着想は、セルビア系米国人の前衛芸術家マリーナ・アブラモビッチの実践にもとをたどる。自分の作品展を見にきた人と向き合って座り、無言でじっとその視線を受けとめるというパフォーマンスで知られ、これがヒントになった。
この形式なら、ネットに頼らなくても完璧に演奏活動をこなせる。コロナ禍でロックダウンが始まると、フォルケンローダ音楽祭の主催者が、シュツットガルトの二つの楽団にこう勧めてくれた。
その結果、(訳注=6月初めまでの1カ月ほどの間に)1100を超える濃密な出会いが次々と生まれた。シュツットガルトで始まった動きは、今ではドイツの他の5都市に広がっている。
それだけではない。ロックダウンへの挑戦は、さらに深化を遂げている。当初は、規制に合わせた便法として始まった。それが今や、人間関係を築き、取り結び、その意義を考える手立てになってきた。そんな関係を育むのが難しくなった時代だけに、この深まりの意味は大きい。
コンサートが終わると、多くの人は打ちのめされたようにその場を離れる。芸術家と芸術そのものと、じかに向き合った強烈な体験で放心状態になるのだろう。
あのブドウ畑の会場では、別の女性がコントラバス奏者のマヌエル・シャッテルに率直な感想を伝えていた。
コンサートの約束ごとを破って、思わず感謝の言葉を口走った。それも、初対面のシャッテルを前から知っていたかのように、「あなた」ではなく、「君」と呼びかけたのだった。
感情がほとばしり出ることはよくある、とシュテファニー・ウィンカーはいう。米ニューヨークの音楽大学ジュリアード学院で学んだこともあるフルート奏者。今回のコンサート方式を編み出し、自らも奏者として加わっている。
「今はみんな、人との触れ合いに飢えている」とウィンカーは話す。「画面ばかりを見過ぎて、相手の目を長く見つめることが持つ絶大な力を忘れてしまっているのだから」
演奏者も、このコンサートでは圧倒されることがよくある。
シャッテルにとっては、何週間も自宅で一人きりの練習をしてきた後だけに、聴き手のために演奏することで目を見開かされる思いがした。
「自分の思いを真に表現するには、聴き手が必要なんだ」。ブルスダイリンスとのコンサートを終えて、シャッテルはしみじみと語った。「これで、つかえていたものが下りた。世界が、再び回り始めた」
それに、こうして見ず知らずの人と出会うことには、心の高ぶりを感じるとシャッテルはいう。視線を合わせねばならない。受けた第一印象をもとに、曲目も決めねばならない。
そして、その人に、その人だけのための曲を捧げる。
ブルスダイリンスの場合は、その人生に重ね合わせて選曲したわけではない。イングランドにいたことは、知らなかった。それでも、自分が意図的に「グリーンスリーブス」を選んだと感じてくれたことは、その人なりに正しい受けとめ方だったに違いない。
あの日は一目で緊張ぶりが分かった、とシャッテルは振り返る。「グリーンスリーブス」に決めたのは、心を解きほぐすのにうってつけの曲だと考えたからだ。
「この曲なら、元気づけ、手をとっていざなうことができると思った。『さあ、一緒に行こう』と」(抄訳)
(Patrick Kingsley)©2020 The New York Times
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