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仕事場はキッチンからスクリーンへ 盲ろうの男性、映画で主演し世界が広がった

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, at the Helen Keller National Center in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
米国立ヘレン・ケラー・センターのキッチンで働くロバート・タランゴ(55)=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times。映画で主演した初めての盲ろう者と見られている

楽しい一夜を終えて、映画制作者のダグ・ローランド(35)は帰路に就いた。午前4時、ニューヨーク・マンハッタンのイーストビレッジ。すると、人通りの絶えた街角に男の人が立っていた。助けが必要なようだった。

話しかけてみた後で、何か書いてあるものを持っていることに気づいた。「耳が聞こえず、目も見えない。通りを渡るのを助けてほしい」とあった。さらに「この近くのバス停はどこ?」と手帳に走り書きをして尋ねてきた。

「盲ろう者と出会ったのは、これが初めてだった」とローランドは振り返る。

ニューヨークの街で会った、まったく見ず知らずの相手。「なのに、信じ切ってすぐ私の腕を取り、歩き始めたんだ」

直感的に、相手の手のひらに、自分の聞きたいことを書いた。すると、手帳に返事が書き込まれた。

「こんなやりとりには、天の恵みとでもいうべきものがある」とローランドはいう。「偶然の出会いだった。でも、まったく知らなかった世界の人と、即座につながりができた」 2011年のことだった。そして、このつながりが、消えることはなかった。

ローランドは、18分の短編映画「Feeling Through(心で感じて)」を19年に公開した。着想は、あの偶然の出会いだった。

この映画は、あまり知られていない盲ろうの世界を見る「窓」の役割を果たしている。深夜のニューヨークの街角で、非行青年と盲ろうの男性が出会い、心のつながりを深めていくというストーリーだ。

映画としては、「The Feeling Through Experience(体験を心で感じて)」という題の3部構成イベントの最初に出てくることが多い。その後に、制作記録が24分続き、(訳注=盲ろう者の社会と他の社会とが交わる45分の)パネルディスカッションで締めくくるという流れだ。

主役の盲ろう者を、俳優がまねて演じるのではなく、盲ろう者本人に演じてもらうことにローランドはこだわった。一つには、映画としての迫真性を追いたかった。さらには、盲ろうという極めて困難な条件のもとでも、これだけのことができるというメッセージを貫きたかった。

しかし、そんな人物がどこにいるのか、知るよしもなかった。あの夜に会ったその人に登場してもらえないか、とも思った。が、手がかりは「アーツ(Artz)」というニックネームしかなく、本人を捜し出すことはできなかった。

そんなときに、偶然の出会いが再びあった。相手は、演技の経験は皆無だった。ニューヨーク郊外のロングアイランドで、キッチンの皿洗いなどをして働いていた。

その人、ロバート・タランゴ(55)は、映画で主演した初めての盲ろう者ということになるだろう。

**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, signs during his commute home in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
タランゴの手話の動作=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times

それだけではない。ローランドとともに、全米各地で開かれた数多くの上映会やプレゼンテーションに出向き、盲ろうの世界について啓蒙(けいもう)する広報担当の役割を果たすようになった。

映画ファンなら、「奇跡の人(原題:The Miracle Worker)」をご存じのことだろう。あのヘレン・ケラーの目の不自由な家庭教師アン・サリバンを描いた1962年公開の作品だ。しかし、実際の盲ろうの世界となると、あまりに知られていないことが多いのが実情だ。

「ほとんどの人は、盲ろう者といえば、ヘレン・ケラーの名前しか聞いたことがない」。ロングアイランドにある米国立ヘレン・ケラー・センターの役員スー・ルゼンスキーは、こう話す。そして、「ダグ(ローランド)の映画は、盲ろう者本人を主要なメディアの前面に引き出したという点で画期的だ」と評価する。

今回の映画の制作にあたって、ローランドが助けを求めたのが、このセンターだった。

センターでは、盲ろう者への関心を高め、「この人たちは、自活できないので、閉じこもって暮らすしかない」といった固定観念を崩すことに力を入れている。(訳注=青年と成人の盲ろう者を対象にしたリハビリ施設として)身の回りの世話や料理を教え、さらには点字を利用したスマホやコンピューターの操作の学習にも力を入れ、しっかりとしたところに職を得る手助けをしている。

「それにしても、盲ろう者を主演させる映画制作の相談なんて、受けたことがなかった。正直なところ、当初は大丈夫かなと疑っていた」とルゼンスキーは明かす。

その映画の構想を、ローランドはこう説明した。

見るからに異なる2人のよそ者が、出会う。最初は意思疎通もままならないが、心がふれ合い、助け合うようになる。そこから、互いにわかり合う人間の能力は、それぞれを隔てる違いよりも強く、これを乗り越えていくというメッセージが発信される。

**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, signs during his commute home in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
タランゴの手話の動作=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times

ヘレン・ケラー・センターは、全米で候補者を探し始めた。盲ろう者との会話に必要な触読手話に通じた人も確保した。手に触れながら会話するやり方で、よく用いられている。

結局、ローランドは十数人と面接したが、ピッタリくる人は見つからなかった。すると、センターの職員の一人が、「ロバートはどうか」とつぶやいた。推薦というほどのつもりではなかった。

それが、タランゴだった。

この20年、センターのキッチンの仕事に専念していた。それに、日々の通勤も大仕事だった。公共交通機関を利用した、長時間の複雑な通勤を変更しないために神経を使うことも多かった。

タランゴの身近にいる人は、熱血でカリスマ性すら漂わせるその性格をよく知っていた。

だから、面接になったが、面白半分で連れてこられたところもあった。エプロンをかけ、手はぬれたままで、当惑した表情を浮かべていた。

「何か問題でも起こしたのかと思っていたようだ」とローランドは今でも笑う。

すぐに、通訳を介して映画の話をし、撮影に数日はかかると伝えた。

仕事熱心なタランゴは、キッチンの作業シフトに差し支えると答えた。

センター側が「仕事はもちろん免除になる」と説得すると、「それなら、撮影に1カ月かかってもいい。いや、1年でも」と軽口が返ってきた。

ローランドは、あの晩のアーツのユーモアと独特の雰囲気を、この人物が持ち合わせていることをすぐに感じとった。

**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, signs during his commute home in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
タランゴの手話の動作=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times

役を引き受けることは、タランゴにとっては思わぬ人生の方向転換に等しかった。

会話は、手話がほとんど唯一の手段になる。皿を洗い、配膳し、在庫を補充する仕事を中心に回っていた日々の暮らしも、変わってしまう。

一方で、子供のころの夢をかなえる誘いを今、目の前で受けている。

米アリゾナ州で育った。耳は聞こえなかったが、目は見えた。ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、バート・ランカスターといった一昔前の俳優に心酔し、自身も映画俳優になりたかった。

しかし、その希望は消えていった。20代から、視力を徐々に失うようになった。まれな遺伝子疾患であるアッシャー症候群のためだった。

「突然、映画の主役になるよう求められた」とタランゴは、通訳を介して話してくれた。

そして、引き受けた。

通訳を頼りながらの撮影が、ニューヨーク市内で続いたのは、1年前のことだった。そこで、共演したスティーブン・プレスコッド(27)と心の絆を築いた。タランゴが演じる盲ろうのアーティー(Artie)を助け、バス停まで連れていく非行青年の役を務めた。

「初めて会って、目が見えず、耳も聞こえない人がそこにいると知ったときは、『一体全体、どうなるんだ』と思った」とプレスコッドは率直に語る。

しかし、多くの盲ろう者と同じように、訓練を受けたガイドらの支援があった。さまざまな手法で、状況に応じながら意思疎通を図るということをタランゴが覚えるのに、時間はかからなかった。

「一人の俳優として、私を助けてくれた。一緒に演じながら、間違いなく多くのことを教えてくれた」とプレスコッドは感謝する。

**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, signs during his commute home in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
タランゴの手話の動作=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times

プレスコッドは、ニューヨークのブルックリンで育った。16歳で、武器を所持した強盗と暴行の容疑で逮捕された。裁判では、長期の禁錮刑を免れるために有罪を認め、社会復帰を兼ねた演劇コースを受講した。

この受講が大きな支えになった、とプレスコッドは話す。自分の人生を一人芝居にした。2014年には、マンハッタンでの演技を見たウィリアム英王子が、ロンドンでやるのなら、手伝いたいと申し出てくれたこともあった。

最近、マンハッタンで開かれた上映会。ローランド、プレスコッドとともに、タランゴが生のパネルディスカッションに登壇すると、温かな声援を受けた。

会場には、あのアーツの姿もあった。ニューヨーク・ブロンクスに住むアルテミオ・タバレス(Artemio Tavares、39)。タランゴが出演するようになった後で、ローランドはその所在をようやく突き止めることができた。

タバレスは、11年のそのときのことをよく覚えていた。ただ、それは、公共交通機関を利用してニューヨーク市内を移動するときに助けを求める数多くの出会いの一つにすぎなかった。

タバレスの会話手法には、独特のニューヨークスタイルがある。ラップをやる人のように、自信たっぷりに大胆なジェスチャーを織り交ぜるからだ。ニューヨーク近代美術館や総合芸術施設のリンカーンセンターにも、触読手話ができる友人かガイドと一緒に出かけている。

目と耳が不自由であることが分かるよう、服には音声装置をピンで取り付けている。最寄りのバス停や地下鉄の駅を尋ねるために、何種類かの札をすぐに取り出せるようにしている。

地下鉄がホームに入ってくれば、空気の流れで分かる。各駅での停車も、感じとることができる。その回数を数え、目的地で降りる。

一方のタランゴは、公共交通機関を使うときは、記憶と杖に頼ることが多い。狭いプラットホームでも、そうだ。耳の不自由なルームメートと住まいをシェアしながら、独りで暮らしている。

通勤に職場の同僚の助けがない場合は、長いときには片道3時間もかけて通ってくる。タクシーに乗り、バスを2台乗り継ぎ、さらに列車とシャトルバスを利用する複雑なルートだ。

**EMBARGO: No electronic distribution, Web posting or street sales before SATURDAY 12:01 a.m. ET MARCH 7, 2020. No exceptions for any reasons. EMBARGO set by source.**Robert Tarango, a deaf-blind kitchen worker, on his commute home in New York, Dec. 12, 2019. Tarango is perhaps the first deaf-blind actor in a lead role, starring in the film メFeeling Through.モ (Vincent Tullo/The New York Times)
帰宅するため、電車に乗るタランゴ=2019年12月12日、Vincent Tullo/©2020 The New York Times。白杖(はくじょう)を使いながら、公共交通機関をいくつも乗り継ぐ

最近のある平日の帰宅は――。

まず、タクシーに乗った。さらに、バスを2台とロングアイランド鉄道を利用。駅を降りると、タクシー乗り場に行き、自宅の住所をメモ書きにして運転手に渡した。

タランゴが動く範囲は、映画に出るようになってからは、もっと広がった。映画会に出るよう請われて、ローランドと全米各地に出向いた。

そのローランドは、短編を通常の映画の長さにしようと、資金集めを続けている。 「本格的な俳優への道が開けるのかも」とタランゴも期待する。

「台所の役がこれだけ長かったのだから、そろそろ新しい役が回ってくるように祈りたいね」(抄訳)

(Corey Kilgannon)©2020 The New York Times

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