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こんなサッカー人生もある 20カ国・地域でボールを蹴った「アジアの渡り鳥」伊藤壇

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
いつも練習している公園でボールを蹴る伊藤壇。東ティモールから帰国して以来「切るのは引退の時」と決めている髪は伸び、後ろで束ねている=札幌市内、白井伸洋撮影

■スポーツ万能少年 入団2年目の挫折

忘れられない光景がある。1999年の夏。J2「ベガルタ仙台」入団2年目のミッドフィールダーだった伊藤は、久々のスタメン出場をつかんだ。ルーキーとして順調なスタートを切った1年目とくらべて、序盤はけがで出遅れていただけに、試合にかける思いは強かった。だが、試合当日。起きると、日が高い。時計を見ると、すでにミーティングの集合時間だった。あわてて電話を入れたが1カ月の謹慎処分を言い渡される。その後も出場機会は訪れず、シーズン終了後に契約更新はなかった。

Jリーグ・ベガルタ仙台時代の伊藤壇@VEGALTA SENDAI

Jリーグ誕生後間もない時期、J1昇格を目指す高揚感がチームにみなぎる中で、伊藤は「遅刻」をきっかけに夢だったJリーガーの道を2年で外れた。「当時は、仲間に誘われたら平日でも朝まで遊んでいたし、遅刻も初めてではなかった。気の緩みがあったし、節制もできていなかった」。今でこそ冷静に振り返るが、当時の伊藤に残ったのは、喪失感とプライドだけだった。

少年時代からスポーツ万能で、「好きなことを一生懸命やっていれば、将来への道は勝手に開けていく」と思ってきた。小学2年で野球を始めればピッチャーを任され、小6の時にはアイスホッケーの選抜チームで全国制覇。漫画「キャプテン翼」に憧れて始めたサッカーでも12歳以下の日本代表候補合宿に呼ばれた。そこで「全国トップとのレベルの差」を痛感し「やるからには一番を狙う」とサッカー特待生として登別大谷高校(当時)に進学。3年の時に決勝ゴールを決めて同校初の全国大会出場を勝ち取った。

「他人と一緒は嫌だと言いながら、周囲に気を使えて、誰よりも多くファンレターをもらっていた」。高校時代、ともにプレーした地元建設会社社長の里圭介(42)が回想するのは「何でも一番」だった伊藤の姿だ。

小学校時代、札幌と姉妹都市のドイツ・ミュンヘンのサッカーチームが来日し、札幌で交流戦をした。友達になった少年たちと笑顔をみせる伊藤(左)

■サッカーの借りはサッカーで返す

解雇された当初は「力がないわけではない。そのうちどこかのチームからオファーがくるだろう」と高をくくっていたが、現実は厳しかった。札幌に帰り、アマチュアチームに入るが、遅刻の記憶がフラッシュバックのように襲い、バイトをしても失敗し、酒を飲んでも気は紛れない。そんな伊藤を支えたのが、特別支援学校で教えながらチームで練習していた大学の先輩、山本真也(45)だった。解雇の理由を知り「元プロかもしれないが、サボったらここでも試合には出られないぞ」とあえて厳しく接した。そんな日々の中で「サッカーで作った借りはサッカーで返さない限り、前に進めない」と気づいた伊藤は、雑誌でシンガポールのチームが外国人選手を探しているとの記事を見つけ、飛びついた。

テストを経て契約までこぎ着け、1年間シンガポールのチームでプレー。だが、サッカー以外の時間は現地に住む日本人とばかり過ごし、英語も話せないままだった。「どうせすぐ日本に帰ってくるだろう」という周囲の臆測通りにはなりたくない。伊藤は目標をあえてブログに書いた。「1年で1カ国ずつ、10年で10カ国でプレーする」─。自分の中にある「甘さ」から来る過ちを繰り返さないためには、退路を断つしかなかった。

ブータンで、民族衣装を着てポーズ

まずは知り合った選手のつてをたどってオーストラリアへ。その翌年はベトナムへ。シンガポールでは通訳を雇っていたが、チーム探しから交渉までを一人ですることに決めた。最初はチーム宛てに英語のメールや履歴書を書くのにも苦労し、札幌の英会話学校に駆け込んだこともあった。それが、自分のプレー映像を編集しSNSの動画投稿を駆使してPRするまでになった。テストや練習試合に飛び込む「道場破り」をする勇気も身についた。

2004年の香港リーグでは、そんな伊藤らしさが花開いた。ゴールを決めるとユニホームをめくって「我愛香港(香港を愛している)」と書いたアンダーシャツを観客席に見せる姿が地元サポーターの人気を集め、目標だったリーグ選抜に。さらにプレシーズンマッチでイタリアのACミランに勝利。ファッション誌のモデルもつとめた。当時、雑誌編集者として伊藤を取材したチョイ・シウホン(43)は「後に日本人の選手が相次いでやってきたが、伊藤ほど気取らず、香港市民のように振る舞った人はいない」と話す。

香港(2004年)の時、ファンにサインしている姿(香港ポスト提供)

ブルネイでは豪邸とポルシェをあてがわれた。ラオスではヤギの群れがピッチの芝を食べている中で公式戦を戦った。ネパールのピッチは凸凹でラインも引かれていなかった。さまざまな国を渡り歩いたが、「その国で自力で生活できるだけの金額を得る」ことだけは守ってきた。「それでこそプロだといえる」と思うからだ。

ミャンマー時代の伊藤。パゴダ(寺院)を背景に民族衣装ロンジーをはいて、チームのユニホームを手にしている=本人提供

■アジアのチームへの懸け橋に

そんな伊藤に続こうとする後輩も現れ始めた。石津大輝(31)は大学生だった08年、香港の伊藤を訪ねた。当時、マレーシアなどのチームを経て再び香港リーグにいた伊藤は、アポなしでやって来て「プロサッカー選手になりたい」と訴える石津に戸惑いつつ、夕食に誘ってアドバイスを授けた。その後、石津はタイのチームに入団して2年間プレーし、今はサッカー関連会社で働いている。「伊藤さんの自分を売り込む力はすごい。プレーが華やかで、どうやって見せるのかを知っていた。自分をどうアピールするかを教えてもらった」

伊藤は14年から毎年、アジアを目指す元Jリーガーら日本人選手を集めた合宿をバンコクで開いている。「チャレンジャス・アジア」と名付け、所属先が決まっていない選手を集めて一緒にトレーニングする。寝食を共にして人柄や特性を見極めた上で、人脈を生かしてアジアのチームとの橋渡しをするためだ。これまでの参加者は60人に上るが、多くがアジア各地でプレーする機会を得ている。

サッカー教室では、子どもたちに簡単な英会話も教えている。「自分が英語で苦労したから」という=札幌市内、白井伸洋撮影

伊藤がシンガポールに渡った頃、アジアでプレーする日本人はごく少数だったが、ここ10年で急増し、東南アジアだけで約100人に上るという。「Jリーグで活躍して、欧州の強豪へ移る。それだけがプロサッカー選手の生き方ではない」。伊藤は今、つくづく思う。「挫折しても失敗しても、そこで諦めずに、別の道を探して、そこを目指せばいい。道は決して一つではない」。その道で、ほかの人が見たことのない景色を見ることができるかもしれない。そんな「選択肢」もあると、後輩たちに伝えたい。

伊藤壇=札幌市中央区、白井伸洋撮影

アジアを渡り歩くうち、いつしか「アジアの渡り鳥」というあだ名がついた。伊藤は笑う。「渡り鳥って、たいがい群れるじゃないですか。でも僕は群れない」(文中敬称略)

Profile

  • 1975 札幌市に生まれる
  • 1984 漫画「キャプテン翼」の影響で、小学3年でサッカーを始める
  • 1991 登別大谷(現・北海道大谷室蘭)高校へ。高3で全国高校サッカー選手権出場1994 仙台大学に入学
  • 1998 JFLブランメル仙台(現・J1ベガルタ仙台)に入団
  • 1999 契約延長されず退団
  • 2001 シンガポールのチームと契約し、初めて海外へ。その後、オーストラリア、ベトナムのチームでプレー
  • 2004 香港のチームでプレー。リーグ選抜で出場したイタリアの強豪ACミラン戦で勝利。その後、タイ、マレーシア、ブルネイ、モルディブ、香港の別のチームでプレー
  • 2009 マカオで「10カ国・地域でプレーする」という目標を達成。その後、インド、ミャンマー、ネパール、カンボジア、フィリピン、モンゴル、ラオス、ブータン、スリランカのチームでプレー
  • 2017 20カ国・地域目となる東ティモールのチームと契約。5月に契約解除

Self―rating sheet 自己評価シート

 伊藤壇さんは自分のどんな「力」に自信があるのか。8種類の「力」を5段階で評価してもらうと「行動力」と「持続力・忍耐力」に迷わず「5」をつけた。

「この二つが飛び抜けているから、ここまでやれたと思う」と伊藤。昔は「若いんだからもっと練習しろ」と言われたが「年だからこそ、練習が必要だと気づいた」という。ほかは「冷静に自分を見ている」と控えめだ。「年とともに選手としての価値は下がっても、人間としての価値は上がっている感じがする」。「語学力」は意外にも「2」。「大して英語を話せなくても飲み会に参加すれば、それで受け入れてもらえることもある。大事なのは行動」

Memo

危機管理…長い外国生活で「最悪の状況」を常に想定して動く癖がついた。留守にする時は、現金を入れたカバンをさらに大きなカバンに、さらにスーツケースに入れて南京錠をかけた上で、部屋の写真を撮影しておく。「給与を手にするまではその国を出ない」「日本に帰国している間に歯を治療しておく」などのルールも決めている。
食事…栄養バランスなどに気をつかわずに、食べたいものを食べることにしている。苦手な野菜はほとんど食べずに、ビタミンなどの栄養は錠剤で取る。アジア各国で暮らすなかで、特に好きになったのは香港やタイの料理。「インドではカレーばっかりだったけれど、やっぱりカレーはおいしかった」