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恋した人は難民キャンプに暮らす人だった

アジアの恋
夫の大学院の卒業式で2人の子供と(本橋奈々子さん提供)
夫の大学院の卒業式で2人の子供と(本橋奈々子さん提供)

カトリック信者として育ったという本橋奈々子さん。開発途上国の支援の仕事に携わることを志望し、大学卒業後に宣教師としてタイへ。そこで出会ったのが、少数民族カレン族として難民キャンプで生まれ育ったクゥイクゥイさんだった。

――初めてタイを訪れたのは高校生の時。タイ東北部で貧困層の教育支援をしている母の知人に会いにいったのですが、その方がすごくキラキラして見えて、開発の仕事をしたいと思うようになりました。農大で熱帯農業について学び、卒業後は、カトリック信徒宣教者会に就職。実は当初はサハリンに派遣されるはずだったのですがビザが下りず、タイへの派遣が認められました。

26才の時、2年間の任期でタイに派遣されたが、最初の1年は試行錯誤が続いた。

――最初の1年は無給。タイカトリック教会の福祉部門に所属する形で各地を訪ね、私にできることがないか探しました。社会人になりたてで、特にスキルもなかったから自分に何ができるのかと悩みました。1年のリサーチを経て北部の中核都市チェンマイでカレン族の女性たちとともに、手工芸商品開発を始めました。活動の結果が出るには10年かかると教区司祭には言われましたが、自分がしていることは正しいのだろうかと、日々考えていました。

そんな時、若いソーシャルワーカーを育てるための会で出会ったのが少数民族カレン族のクゥイクゥイさんだった。1980年代、ミャンマーのカレン州ではカレン民族同盟(KNU)など反政府組織とミャンマー軍との戦闘が激化。故郷を離れ、難民キャンプで育ったクゥイクゥイさんは、カレン族難民の将来を担う指導者になるとも目される若き活動家だった。

――最初の印象はあんまりよくなかった。みすぼらしい格好で、遅刻もして。でも、彼が当時暮らしていた難民キャンプの中のツアーガイドをしてもらった時に見方が変わった。すごくツアーの内容が濃かったんです。難民キャンプでは多くの人が国籍を持てず、大学に行きたくてもキャンプを出られない。「好きなところに行き、存分に勉強できる君たちの世界がみんな羨ましいんだ」と語ってくれました。彼自身はすごく成績がよかったため、本当に例外的に奨学金を受け、国籍もとれてイギリスの大学にも行くことができた。でもそうじゃない人がほとんどで、そうした状況を変えなければいけないという強い使命感を持っていました。当時も今も、カレン族の若者のために奨学金を出すためのNGOで働いています。

この一泊二日のツアーの最中、奈々子さんは恋をしていることに気がついたという。

――ツアーの二日目の明け方、回りにいた人に「クゥイクゥイはどこにいるの?」と聞いたら、「家に帰ったよ」と言われて。それが奥さんのいる家庭に帰ったという意味だと勝手に誤解しちゃったんです。そうしたら驚くほどショックを受けている自分に気がついて、「あ、好きになっていたんだ」と気がつきました。結婚が誤解だったことがわかった時、「絶対に逃しちゃいけない」と決意し、ツアー中は隣を離れませんでした。

出会いからわずか3週間後、奈々子さんはいきなりクゥイクゥイさんにプロポーズをした。

――任期の終わりも近づいた頃、気がついたらふと「結婚してくれる?」とプロポーズの言葉を口にしていました。交際もしていなかったのですが、彼もすんなり「いいよ」って。一緒にいるのがものすごく自然だったんです。彼の友人にはよく「なんでこんなに醜い顔の彼と結婚するの」とか「安心して。彼はこの年まで本当に彼女とかいなかったから!」とか言われたり(笑)。彼はほかのカレン族と比べても貧しかったので、なんで土地も財産もない男と結婚するのか、という意味もあったのかもしれません。私は「こんなに素敵で優しい彼がなぜ未婚だったのだろう」と思っていたのですが……。

2006年、二人は難民キャンプ内で結婚。その直後に妊娠が発覚した。つわりを抱えて移り住んだ夫の実家があったのはチェンマイとは比べものにならない僻地。ミャンマーとの国境にほど近いメソトにある難民キャンプの跡地でカレン族が暮らす小さな小さな村だった。

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夫の実家。この材木を筏で運んで作った新しい家で、新婚の奈々子さんは夫の両親と暮らした(本橋奈々子さん提供)

――夫の実家は、広さは50平方メートルほどあるものの、高床式のいわゆる掘っ立て小屋でした。本来は鶏などの家畜を飼う床下に、煉瓦で仕切りをした空間が私たちの寝室になりました。なにせ床下なので、天井はまっすぐに立てないくらいの高さだし、暗い。夜寝ている時にいつも「しゃーっ」「しゃーっ」という音が聞こえるので何だろうと思っていたら、家を取り壊した時に、壁の裏にコブラがいたことがわかりました。カレン族の家族たちは「コブラは妊婦はおそわない」と言っていましたが、ヒヤリとしました。煮炊きは外で薪を燃やす。トイレは森の中。屋根はトタンに石で重しをする簡単なつくりで、強風が吹いたら本当に屋根が外れてしまったこともあります。つわり中は食事が合わずに生クリームを夢見たり、近所の人が日本人の妻を見に訪ねてくるのがしんどくなったりしたことも。夫とつきあってまだ間もなくて、すごく好きだったのもあって耐えられたのかもしれないですね。

長女が10カ月になった時、奈々子さんは日本に帰ることを決めた。

――夫が少し離れた難民キャンプのNGOで仕事をすることが決まったタイミングで、私は娘を連れて日本に帰りました。大学の奨学金を返すためにお金を稼ぐ必要もあったし、生活の違いもあった。頭で考える「自然の暮らし」と実際の自然の暮らしは違うとも実感していました。日本で就職した物流会社の仕事も面白くなりました。ソーシャルワークは何が正解かわからない。本当に人のためになっているんだろうか、と悩んでいましたが、サラリーマンの仕事はわかりやすい答えがあるのが心地よく思えた。何より座って仕事をしているだけで、ちゃんとお給料が出るのが感動的でした。

その後、日本とタイを行き来する中で、第2子となる息子も産まれた。長女が小学生にあがるタイミングで奈々子さんは日本での仕事を辞め、バンコクに暮らすことを決めた。

――娘が故郷の言葉や文化を知らないまま育つのは良くないと思い、タイに帰ることを決めました。でもそのときには、もう私が竹作りの家の暮らしには戻れなかった。話し合って私がバンコクの日系企業で働き、夫はそのまま実家に暮らすことになりました。息子は夫の実家にいることが長かったので都会が合わずにメソトで暮らすことを選びました。逆に日本暮らしの長い娘は、メソトの暮らしができるか聞くと「無理」と。以来、休みを利用して互いに行き来する形で別居を続けています。

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結婚式の時。右から3番目が奈々子さん、その左が夫のクゥイクゥイさん

社会福祉という理想を共有することで始まった奈々子さんと夫の関係。だが、時間を経てそれぞれの役割分担ができてきたと感じている。

――彼がカレン族の民族の暮らしを良くするために活動していることを私は尊敬しているし、尊重したい。だから家族一緒に暮らすために日本に来る、と彼が言ってくれた時も断りました。彼はカレン族の暮らす場で生きるべき人だと思ったし、彼の活動を応援し続けたいと思っているから。私は子供の将来のためにもお金を稼ぐ側になればいいと割り切っています。これだけ長く離れて暮らしていると、何のために結婚しているんだろう、と思うこともあるけれど、これが私たちの夫婦のあり方なのかな。夫はいつか将来、私が建てたクーラー付きの家の横に、カレン族風の竹の家を建てて隣で暮らそうと言ってくれていますが(笑)。

カレン族

ミャンマーの全人口約5200万人のうち約7割はビルマ族で、他に大別して約50の少数民族がいる。カレン族は東部のタイ国境地帯を中心に全人口の約7%を占める有力民族。47年6月、武装組織「カレン民族同盟」(KNU)を旗揚げし、軍事政権との武装闘争を続けてきた。しかし、95年1月、本拠地マナプロウが陥落。カレン族難民が大量に流出し、いまもタイ国境沿いに多くの難民が暮らす。