
![]()
![]()
ここで言う「教養教育」は、「外国語の習得を通した東西の文明の学習、和洋漢の古典を読むことによる精神の鍛錬」を意味する。こうした精神の鍛錬はなぜ必要なのか。それは短答試験用の断片的な知識の習得だけでは真の知性の鍛錬に繋がらず、判断力を養うための訓練として古典教育がどうしても不可欠だと考えられるからだ。
計算ができる、化学記号を知っている、歴史の年表や人名を知っているといった「私智」も必要だが、それ以上に、物事の軽重大小や優先順位を見極める能力(これを福沢諭吉は「公智」と呼んだ)が、人生においても国家存亡に際しても重要な役割を果たすのだ。
人間の日々の生活には単調なルーティンの活動も多いが、時として非定型な予測しがたい問題に直面することがある。個人も、組織も、そして国家も、こうした非定型の、時には「危機」と呼ばれるような状況への対応能力が問われる場面に遭遇する。
リーダーに求められるのは、こうした公智に基づく「リーダーシップ」なのである。そしてリーダーに従おうとする気持ちを人々に起こさせるのは、彼の公正さ、廉直さ、勇気といった公徳であることは言うまでもない。リーダーは憧れや理念を指し示す人物でなければならないからだ。
この「公智」「公徳」という資質が、先に挙げた第二点ともかかわってくる。日本では、「公」の観点から組織の中で自らを位置づけるという意識が希薄ではなかったか。
日本では、「立身出世」を遂げた人物を私的な成功者としてただ崇拝するか嫉妬するだけで、その人物の公的貢献を重く見ない気風が西欧に比べて強いといわれる。太閤秀吉を、「仲間の百姓の社会状況の改善(公的な仕事)には尽力せず、単に仲間を見捨てて自分だけが独り(私的に)出世を遂げた」人物として福沢が厳しく批判したのも、この日本社会の「私」の偏重を例示するためであった。
この点は、現代日本でも、多くの企業や官公庁などの組織で「私的」利益を求める老人が影響力を行使し、若者の出番を少なくしていることを連想させる。そこには古典ではなく老人の知恵に頼らざるを得ない社会構造が見てとれる。こうした傾向は、結局、自らの生活や活動の「公的」基盤をなす社会と国家の存立そのものを危うくしているのである。
デモクラシーは、「公」を置き去りにし、「私」の世界に人々を閉じ込めてしまうという欠陥を持つ。しかし、デモクラシーよりましな体制が見付からない以上、この装置を何とかうまく使いこなしていかなければならない。その努力が、他の先進諸国と比べて、日本の場合不十分なようだ。
では、日本の人材育成の問題点を少しでも改善する方途をどこに求めればよいのか。そのひとつは、「公智」「公徳」を涵養するために、人類の知的遺産である古典に学び、外国語の徹底的な訓練を通した東西の文化文明の理解を深めることであろう。
受験秀才の「私智」を偏重するのでもなく、性や金銭などの「私徳」にかかわるスキャンダルで騒ぐのでもない。「公智」「公徳」を鍛え、他人の立場に身を置き、世界の「相場」を知り、将来の社会や国家のことに思いを馳せるような人材を日本はもっと育てなければならない。そのための「教養教育」の魅力的カリキュラムを準備する大学が生まれることを強く願う。