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まず、比較的よく知られている事実として、井上財政の時期を含めて、日本の実体経済の縮小が、少なくとも米国と比較して、相対的に軽度であったことに注意したい。
日本の実質経済成長率は28年の6.5%から29年に0.5%に下がり、以後31年まで0~1%付近で推移した。たしかに、3年間にわたってほぼゼロ成長が続いたことは、近代以降の日本では異例の事態であったが、この間、一度もマイナス成長を記録したことはなかった。
これに対して、米国では30年に実質経済成長率がマイナス9.6%になった後、33年まで4年間にわたってマイナス成長が続き、特に32年までの3年間はマイナス10%内外の大幅な経済の縮小が生じた。
米国経済がこれほど大きく縮小した原因として、ミルトン・フリードマン等の古典的な研究は、通貨供給の減少に注目した。たしかに、現金と預金通貨の合計、いわゆるM2は29年の634億ドルから33年の422億ドルへと33%もの大幅な縮小を記録した。
日本のM2は29年から31年にかけて8%縮小した後、32年から増加に転じている。
通貨供給の変化率の日米間の大きな相違は、この間の両国の実体経済の動きの差異によく対応している。
日本における通貨供給が32年から増加したことは高橋財政を反映するとして、31年までの縮小が軽度だったのは、井上の緊縮政策がそれほど厳しくなかったからであろうか。
この疑問については次のようなデータがある。M2の基礎となるベースマネー、すなわち現金通貨と銀行の準備預金の合計は、日本では28年から31年の間に16%減少した。これに対して米国では、ベースマネーが減少したのは27年から30年の期間であり、その間の減少率は3%にすぎなかった。すなわち、政策当局がより直接的にコントロールする対象であるベースマネーの供給は、日本のほうが米国より、はるかに大幅に減少していたのである。金解禁を核とする井上財政は、国際的に見て極度に緊縮的なマクロ経済政策であった。
そうであるとすれば次の問いは、これほどの緊縮政策とベースマネー供給の減少にもかかわらず、日本ではそれがM2の縮小に結びつかなかったのは何故かということである。
M2のベースマネーに対する倍率は貨幣乗数と呼ばれ、上の事実は、大恐慌期の日本では貨幣乗数がむしろ上昇したことを意味する。貨幣乗数は、企業・個人といった銀行以外の部門と銀行自身が金融システムのリスクに対して持つ評価によって決まる。すなわち、企業・個人や銀行が金融システムのリスクが高まっていると考える場合、貨幣乗数は低下することになる。大恐慌期に米国ではまさにこのことが起こったが、他方で同じ時期の日本ではそれが生じなかったのである。
このような現象は、20年代後半以降に生じた金融に関する制度変化を抜きには理解できない。戦前日本の金融システムの制度的特徴として、「機関銀行」が注目されてきた。「機関銀行関係」とは、銀行が特定の企業と密接に結びついているだけでなく、銀行が企業にコントロールされ、それら企業に融資を集中する関係をいう。こうした関係があると、例えば鈴木商店の機関銀行であり、27年の金融恐慌の際に破綻(は・たん)した台湾銀行のように、銀行が過大なリスクを負ってしまうことになる。
筆者が澤田充氏(日本大学)、横山和輝氏(名古屋市立大学)と行った研究によると、20年代において、役員の兼任を通じて企業と関係を持つ銀行は、利益率が相対的に低く、預金の取り付けを受ける確率が高かったという結果が得られた。
さらに、同じく筆者が澤田氏および王珂氏(元東京大学)と行った研究によると、20年代後半に起こった多数の銀行の破綻(は・たん)と合併を通じて、銀行と企業の間の役員の兼任関係が減少しただけでなく、その関係が銀行経営の健全性に与えるマイナス効果も30年代初めまでに解消したことがわかった。
先に注目した金融システムのリスクの低下は、機関銀行関係の解消という制度進化の過程で生じたことになる。いいかえれば、井上財政時代にかけて進展した金融機関の整理・淘汰(とう・た)を通じた制度進化が、大恐慌の影響を緩和し、高橋財政期の成長の基盤を準備したのである。
以上に述べてきたことは、30年代の日本経済の成長パフォーマンスをマクロ経済政策の視点からのみでは理解できないこと、そして、とりわけ金融システムの安定性と、それを支える制度的条件が重要であったことを含意している。
昨年秋以来の経済危機においても、それが今のところ30年代にアメリカで起こったような大恐慌に発展していないのは、日本や主要国で金融システムの安定性がともかくも維持されていることによるところが大きい。主要各国の金融システムの信頼の回復が経済危機からの本格的脱却の前提となると考える。