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先読み日本経済

[第7回]経済学に人間性への深い洞察を
いまアダム・スミスに学ぶ
堂目卓生 Takuo Dome 大阪大学大学院教授

「同感」の重要性

『道徳感情論』の中核となる概念は「同感」である。同感とは他人の感情を自分の心の中に写し取り、それと同じ感情を引き起こそうとする人間の情動的な能力のことである。私たちは、社会生活を営むなかで、人びとが互いの感情や行為をどのような基準に従って判断しているかを学び、その基準を用いて、他人だけでなく、自分自身の感情や行為の適切性・不適切性を判断するようになる。スミスは、個人における、この判断の源を「胸中の公平な観察者」と呼んだ。

人間のなかには、胸中の公平な観察者の判断に従おうとする「賢明さ」と、自分の欲望や利害を優先させようとする「弱さ」がある。「賢明さ」は、私たちに正義感をもたせ、法を作らせ、社会に秩序をもたらす。一方、「弱さ」は、私たちに富や地位に対する野心をもたせ、勤勉、節約、創意工夫などを通じて社会を繁栄させる。ただし、秩序と繁栄を両立させるためには、富や地位への野心は放任されるのではなく、正義感によって制御されなければならない。

スミスの『国富論』は、『道徳感情論』において展開された人間観を基礎として、市場・成長・貿易に関する諸理論を構築するとともに、当時のイギリスが直面した諸問題に対して、とるべき政策を提示した書物である。

スミスは、市場を互恵の場ととらえた。それは見知らぬ人びとが、利己心だけでなく、同感にもとづいて世話を交換する場であった。また、経済成長の目的は、単に一国の富の総量が増大することではなく、貧困の状態にある人の数を少なくすることであった。さらに、貿易は、外国の人びとの取引を通じて、交流を深め、相互依存関係を強め、互いの安全をより確かなものにすることができた。

このように、富は、市場によって見知らぬ人どうしをつなぎ、成長によって貧しい人を救い、貿易によって外国との関係を良好にする。このような富の機能が十分発揮されるのであれば、市場経済は人間のモラルに反するものにはならないはずである。

しかしながら、スミスが見た現実は理想状態にはなかった。ヨーロッパ諸国の経済は、特権商人や大製造業者など、一部の市場参加者の不正と独占によって、そして彼らと癒着した政治家や官僚の規制によって歪められていた。それは「賢明さ」による制御を受けない「弱さ」がもたらした不公平で非効率なシステムにほかならない。スミスは、そのような経済システムを「重商主義」と呼んだ。そして、重商主義政策の象徴ともいえるアメリカ植民地を自発的に放棄することを提言し、『国富論』の結びとしたのだ。

スミス以後、ケインズにいたるイギリスの主立った経済学者は、人間研究にもとづいて経済学を確立するというスミスの構想を受け継いだ。

しかし第2次大戦後、主流派経済学者は、利己的・合理的個人を仮定した上で、理論や実証的手法の数学的精密化にエネルギーを注ぐようになった。それは、市場に対する規制や政府介入の非効率性を明らかにするうえで効果的であった。また、精密な分析にもとづく政策提言は、単なる直感や信念にもとづくよりは、はるかに妥当性をもっていたと言えるだろう。

しかしながら、利己的・合理的個人の仮定は、世間に――特に経済学者が推進する政策によって損害を被る人びとに――経済学者たちは人間というものをわかっていない、という印象を与えた。

新しい経済学の勃興

近年、行動経済学や実験経済学、神経経済学など、実験やアンケートを用いて人間行動に関する仮説を立て、その上に経済理論を確立する新しい分野の研究が盛んになりつつある。行動経済学は、主流派経済学における利己的・合理的個人の仮定を見直し、人間の不合理性や社会性、あるいは感情の影響を理論化することを試みている。人間はどんな時に幸福を感じるかという幸福に関する調査も進められている。

行動経済学の研究成果は、資産市場や労働市場における、いくつかの問題に対して、有効な政策提言を示しつつある。たとえば、米国の住宅価格指数の開発者ロバート・シラーは、行動経済学の研究成果にもとづいて、いち早くITバブルの崩壊を予測し、また、住宅バブルの危険性に警告を与えた。『ソウルフルな経済学』(2008)の著者ダイアン・コイルが述べるように、「人間の顔をした経済政策の機は熟している」といえる。

20世紀末の社会主義経済の崩壊によって、市場経済だけが利用可能な経済システムであることが明らかとなった。だが私たちは、次の段階として、市場経済を、感情、幸福、モラルといった人間の心の視点からとらえ、その視点になじむものに変えていかなければならない。『道徳感情論』の出版から250年たった今、私たちは経済学の始祖スミスが課した問題に、真正面から取り組もうとしている。厳しい経済状況が続くなか、希望を捨てることなく、目の前の諸問題に立ち向かっていくべきである。

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