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現場を旅する

[第101回]釜山、朝鮮戦争の名残が発展の礎に

神谷毅 GLOBE記者 







甘川文化村に至る小道から見た斜面
Photo: Kamiya Takeshi
《釜山》
韓国で2番目の都市。人口は約340万。対馬まで50キロほどの距離で、古くから日本との結びつきが強い。港や坂のある景観、独特の方言などから映画やドラマの舞台になることも多い。








古い家々をアート作品で飾って生まれ変わった町。現代風のアレンジが人気で、行列が絶えない魚の練り物のお店。いま韓国の釜山で熱い場所といえば、この二つだろう。


地下鉄1号線の土城(トソン)駅から地上に出ると、まず目に入るのが、山の斜面にへばりついた家、家、家。


こんなふうに建つ理由は朝鮮戦争にさかのぼる。1950年に始まった戦争で、韓国側は北朝鮮軍によって釜山とその周りの地域に追い詰められ、国は存亡の危機にあった。全国から逃れてきた避難民は斜面にバラックを建てて住んだ。


甘川文化村の通り
Photo: Kamiya Takeshi

当時の名残で人ひとりしか通れない階段状の小道が、家々の間を縫うように今も続く。頂に向かって登ると、家の壁に海や山、子どもたちが描いてあった。


頂上あたりに、「甘川(カムチョン)文化村」がある。2000年代に入り、壁に絵などを描いたり、パステル色で塗ったりする事業が始まった。


外国からの観光客も多い。訪れた日はタイ人が多かった。パダシリ・ケトワンさん(39)は、父母と観光で来た。彼女は「韓国の音楽やドラマはタイで流行っているのよ」と教えてくれた。


ポンテギ
Photo: Kamiya Takeshi






お土産店には、カイコのさなぎをゆでたり蒸したりして味付けした「ポンテギ」が並んでいた。外国の観光客は、この見た目と臭いに挑戦できるだろうか。


再び土城駅へ。地下鉄に乗り、二つ目の南浦(ナンポ)駅で降りる。対岸にある影島(ヨンド)とを結ぶ「影島大橋」を渡った。日本の植民地時代の1934年にできた橋だ。橋げたの一部を上げると船が通れ、当時の朝鮮のランドマークだった。朝鮮戦争のころ、避難民たちが「生き別れたら影島大橋で会おう」と家族らと約束した場所でもある。


私が渡った橋は2013年に復元されたものだ。中ほどから釜山側を振り返ると、「釜山タワー」が見えた。影島側の岸壁には造船所が集まっている。韓国の造船業は、今や世界でトップクラス。渡りきると、避難民たちの悲哀を「がんばれクムスン」で歌った歌手・玄仁(ヒョンイン)の銅像が釜山の街を見つめていた。




(次ページへ続く)

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