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「人類最速の男」ボルトの引き際

スポーツ記者 稲垣康介 #09

今から何年か経った後、「2017年夏の思い出は何?」と聞かれても、困らない自信があります。


ロジャー・フェデラー(スイス)が5年ぶりに「芝の王者」に返り咲いたテニスのウィンブルドン選手権は感慨深かったですし、松山英樹に日本人初のメジャー大会優勝の可能性を感じたゴルフの全英オープンの雨の中の取材も、印象深いものでした。


でも、8月にロンドンで見た「ボルト劇場」の1位は揺らがない気がします。


「人類最速の男」の称号をもつ陸上短距離界のスーパースター、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)の現役最後の舞台となった世界選手権のことです。


開幕前の記者会見から、ボルト節は絶好調でした。

大会前の記者会見で、入場時に会場を盛り上げるウサイン・ボルト=いずれも池田良撮影

「100%の自信がある。レース後の見出しは『無敵』、『誰も止められない』だ。みんなメモしておくといい」。100メートルについて強く言い放ちました。


今季自己最高は世界5位タイの9秒95。自身の持つ世界記録9秒58には遠く及びません。母国ジャマイカの記者からは、嫌みな質問が飛びました。「負けたら現役引退を考え直すか?」。一瞬、嫌な顔を見せてから笑い飛ばしました。


「そんなことは起こりえないから、問題ないよ。心配はいらないさ」


記者会見のやりとりを会場で聞きながら、スーパースターの「引き際の美学」について思いを巡らせていました。30歳のボルトはすでにスプリンターとしての峠は越えています。もし、有終の美を飾れなかったら、かっこ悪いのではないか。でも、本人の自信満々の受け答え、そして過去の勝負強さから、そんな心配は杞憂に終わるかもしれない、とも思いました。


5日の100メートル決勝、スタートの反応が8人中7番目と出遅れたボルトは混戦のフィニッシュで3位。「これが現実だよ。引き際と言うことさ」。素直に負けを認めました。

男子100メートルの表彰台で銅メダルを見つめるボルト


レース後、今回、紙面で解説をお願いしていた北京五輪男子400メートルリレーの銅メダリスト、朝原宣治さんはこんな風に言っていました。

「これまでのいろいろなボルトの伝説的な走りから、絶対勝つだろうと思っていたので、ちょっと衝撃的な負け方ですね。出遅れて体が浮き、中盤でかなり差が開いていた。それを埋めるのは今のボルトの調子では難しかったですね。60メートルぐらいでかなり差があったので、準決勝の加速では距離が足りないと感じました」

男子4×100メートルリレー決勝で、足を痛め顔をゆがめるアンカーのボルト

正真正銘のラストランとなった12日の男子400メートルリレーで、私たちは悲劇的な結末を目の当たりにしました。ジャマイカのアンカー、ボルトが左太もも裏を痛め、まさかの途中棄権。苦痛に顔をゆがめ、それでも懸命にゴールをめざそうとしましたが、倒れ込んでしまいました。伝説を締めくくるには、寂しすぎる幕切れでした。


再び、朝原さんに振り返ってもらいました。「何をやるかわからないと言う意味ではボルトらしいと思いましたけど……。でも、3番手でバトンを受け、あのまま追いかけていても追いつかないんじゃないかと思いました。今のボルトの加速では抜けなかった」。冷徹な分析は、さらに続きました。「やっぱり昨夏のリオデジャネイロ五輪とはモチベーションが違いましたよね。3連覇を狙ったリオとでは。今回、レース前もファンサービスとかいろいろやっていたみたいですよね。勝負の世界から身を引く最後のレースで、勝負に徹していない。いくらボルトとはいえ、集中しないで勝てる舞台じゃない。それだけリアルな世界。それがスポーツのいいところ」


大会最終日の13日、ボルトの引退セレモニーが催されました。名残惜しそうにトラックを1周して、大観衆の声援に応え、最後はフィニッシュライン付近で十字を切り、代名詞の弓を引くポーズを披露してみせました。

引退式典でポーズを決めるボルト

記者会見を振り返ってみます。


今年まで現役を続けたことに後悔していないか?


「たった一つの大会で、これまで成し遂げてきたことが変わることはない。100メートルで負けたとき、誰かに言われたんだ。『(ボクシングの)モハメド・アリだって最後のファイトは負けたんだ。気にするな』って。自分はこれまで自分の速さを選手人生の中で証明してきたし、最後のレースで負けたからといって、自分が陸上という競技にもたらしてきたものが変わるわけじゃない」


印象深かったのは、次のメッセージです。


「努力を積み重ねることで、何だって可能だと言うことを証明してきた。それが僕のモットーだ。だから、みんな、挑戦し続けるべきなんだ。特に若い世代に送るメッセージとして、前に進むというのは大切なことだと思う。僕がそうした思いを若者たちに残せるとしたら、良いレガシーといえるんじゃないかな」


復帰の可能性についても聞かれました。


「ないよ。これまで多くのアスリートが復帰して、恥をかいてきたのを見てきている。同じような目に遭いたくはない」


陸上界に蔓延する禁止薬物の使用についても、質問が飛びました。

「これまでドーピングについて、ずるをするなら永久追放にすべきだと強く主張してきた。陸上界はどん底を味わい、今やっと浮かび上がりつつある。明るく輝き続けるために、最善を尽くさないといけない。自分はドーピングに手を染めなくても力があることを見せてきた。そのことを若いアスリートたちが受け取ってくれたらと願う」


記憶にも記録にも残る、カリブの破天荒なヒーローを上回るオーラを放つアスリートは、おそらく2020年東京五輪に挑む全競技を見回してもいないでしょう。


(次回は9月1日に掲載予定です)




いながき・こうすけ



朝日新聞欧州総局(ロンドン)駐在のスポーツ担当編集委員。欧州で暮らすのは2001年から4年間のロンドン、アテネ駐在以来。著書に『ダウン・ザ・ライン 錦織圭』(朝日新聞出版)。世界のあらゆる情報が瞬時にインターネットで入手できる時代だからこそ、取材現場の臨場感が伝わるコラムをお届けできたらと思っています。



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