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ウラン工場閉鎖から半世紀、負の遺産とキルギスの町

フォトジャーナリスト 林典子 #10

photo:Hayashi Noriko


ソビエト時代にウラン採掘が行われた中央アジアのキルギス、ウズベキスタン、タジキスタン各地の住民の生活環境や健康を守るため、欧州復興開発委員会(EBRD)は今年、支援を行うための協議を進めていると発表した。

キルギス南西部ジャララバード州にある人口2万の小さな町マイルス。この町のウラン工場や廃棄施設が閉鎖され、来年でちょうど50年になる。

この看板には『注意!放射能 生命に危険』とロシア語で書かれている。放射性廃棄物が埋まっている地面に立つ
photo:Hayashi Noriko

ロシア人研究者がこの町でウランを発見したのは1934年。第2次世界大戦後の46年から22年間、約1万トンのウランがここで採掘されたという。

ソビエト政府は東西冷戦下、核兵器開発に膨大な資金をつぎ込んだ。マイルスにも国内外の技術者や医師らが送り込まれ、エリートタウンとして栄えた。

私はこの町のメイン通り沿いにあるアパートの2階の部屋に約1カ月滞在したことがある。ひとりには広すぎる2LDKのアパートの賃料は1日1000円。1階でカフェを営むロシア人夫婦が毎朝目玉焼きとトーストを作り、私が2階から降りてくるのを待っていてくれたのが懐かしい。

放射性廃棄物が埋められている処分場。マイルスには23の処分場がある。ウラン採掘が終わった1968年、放射性物質に土や石をかぶせ、産業廃棄物として埋めた。ウランやセシウム、トリウムなどで水が緑色になっている
photo:Hayashi Noriko

一見、自然豊かで長閑な田舎町のような印象を受けるが、住民は深刻な健康被害に直面していた。

68年にウラン工場が閉鎖した際、産業廃棄物として残された放射性物質は町の各所で土や石をかぶせられ簡単に処理された。核廃棄物処理の仕方をおろそかにしたことがきっかけで、ウラン生産を終えて半世紀経った今も、住民はソビエト時代の負の遺産と共に生きている。

放射性廃棄物処分場の近くにあるカラカチ村のホットスポットの線量は毎時150マイクロシーベルトもあると地元の研究者は話していた。

放射性廃棄物処分場に近いカラカチ村の風景。マイルス川で汲んだ水をロバに運ばせ、自宅へ向かう子どもたち。この村のホットスポットは毎時150マイクロシーベルトだという
photo:Hayashi Noriko

地元の科学者や医師らによると、 がん患者数は他の地域平均の4倍。地元の産婦人科で産まれた新生児の約10%が障害を持っているという。

甲状腺腫瘍で2カ月後に手術を控えていたカエルサ・コイロバエバさん(52)は「廃棄物処分場近くに住んでいたことが原因で病気になったとしても、それを証明できる方法がない」と話していた。

甲状腺腫瘍に苦しむカエルサ・コイロバエバ(52)。2カ月後に手術を予定している。放射性廃棄物処分場の近くに住んでいる
photo:Hayashi Noriko

マイルスの住民の健康調査を独自に進めてきた、キルギス南部の都市オシュの医師によると、キルギス政府は健康被害と放射能の関連性を認めていないという。「認めることで高額の補償を与えなくてはならなくなるからだ」と話していた。

しかし、障害に苦しむ住民の中には自ら首都ビシュケクへ行き、外国人医師にメディカルチェックをしてもらった人もいる。

健康被害だけではない。この地域は地震が多く、地滑りが起こると町の中心を流れるマイルス川の両脇に埋めた放射性廃棄物が流出し、隣国のウズベキスタンやカザフスタンに暮らす300万人以上に被害が及ぶ危険もある。世界銀行などの支援を受け、放射性廃棄物の一部の移動作業も行われてきた。

放射性廃棄物処分場の作業員、テメルバエ・サルバジョ(76)。地元マイルス出身である

photo:Hayashi Noriko

計30名ほどの作業員たちが、放射性廃棄物が埋まった土を掘り、川から約3キロ離れた場所にトラックで運んでいた。掘った所はウランやセシウム、トリウムなどの放射性物質と水が混ざり合っていた。

作業員たちは「放射能はもちろん心配だよ。だけど仕事があるだけでもありがたい。作業後に100ミリリットルのヴォッカを飲めば、被爆を避けられる」と言い、毎日宿泊所の部屋でヴォッカを飲んでいた。

ウラン工場の閉鎖と同時に始まった電球工場。この町の唯一の産業である
photo:Hayashi Noriko

現在、町の産業を支える唯一の施設は、ウラン工場の閉鎖と同時に始まった電球工場だ。多い時で町人口の3分の1の働き口となっていたらしい。

「昔は遊園地も映画館もあったし、学校も医療費や薬も無料だった。将来の心配もしなくて済んだ。でも、今はカフェで酒を飲むことくらいしかすることはないよ」

ある電球工場の男性作業員は諦めきったような表情で私にささやいた。

水頭症の息子ウムルベックに母乳を与えるアイジャマル(29)。成長するにつれ頭は大きくなり手足は育たないと医師に告げられた。夫は酒ばかり飲み日払いの仕事を不定期にするだけ。月の稼ぎは多くて約6000円だという(キルギスの平均月収は約3万円)。家の電気も止まった。「生きている限り少しでも健康に育ててあげることが母親の役目です」。1歳の誕生日を迎える直前の昨年7月頃から「アッパー(キルギス語でママ)」と言えるようになった
photo:Hayashi Noriko

今も町の至る所にレーニン像が見られ、住民のほとんどはソビエト時代に建てられた古びたアパートに暮らしている。私が滞在していたアパートの目の前にはオレンジや黄色、グリーンなどカラフルでレトロな車がよく走り、ソビエト時代の面影が今も強く残っている印象を受けた。

「日本の福島の事故もここでは大きく報道されました。健康被害があったとしても、放射能が100%原因だという証拠を示すのは難しいのかもしれません。でも、『放射能が原因かもしれない』と想像せざるをえないことがすでに苦痛なんです。出来れば他の地域に移住したい。でも、そんな経済的な余裕はないんです」


はやし・のりこ

1983年、神奈川県川崎市生まれ。2006年から西アフリカ・ガンビア共和国の現地紙で写真を撮り始める。「メディアが取り上げない場所で暮らす、一人ひとりの想いや問題を伝えたい」と、硫酸で顔を焼かれたパキスタンの女性、HIVに母子感染したカンボジアの少年、誘拐結婚させられたキルギスの少女などを写真に収めてきた。著書に『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳-いま、この世界の片隅で』、写真集『キルギスの誘拐結婚』がある。16年12月に写真集『ヤズディの祈り』(赤々舎)を出版。ホームページはこちら(http://norikohayashi.jp)


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