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代々受け継がれる栗林家の魂 アーティスト 栗林隆 #08




トリップミュージアム、8回目である。

8は無限大。

無限大に挑戦し続ける、一番身近なアーティストであり、ある意味究極の職人である人の話を今日はしようと思う。

私の親父である。


実は私の親父は、知っている人は知っていると思うが、昆虫写真家である。

まだ、接写技術がおぼつかない60年代に、自分でカメラやレンズを改造し、蟻や昆虫の世界の撮影にチャレンジし続けた男である。

当時のジャポニカ学習帳など、表紙の昆虫の写真たちは、彼の撮影によるものがほとんどであった。そう思うと、思い出せる人もいるかと思う。


いまだ現役でバリバリやっているため、こんな話をしたり書いたりするのは早いだろうし、恥ずかしくもあるのだが、自分のルーツの一人でもある父親に関しては、やはり書かざるを得ないだろうと今回のトリップミュージアムは身内である父親と自分との繋がりを探ってみることにした。

スタジオに籠り、何時間も精密機械をイジる姿は、写真家と言うよりエンジニアに近い。 実際、頭の中がどうなっているのか知りたい今日この頃

実は、私は、あまり他人に興味がない(笑)。

というか自分のことでいっぱいいっぱいなのもあり、実の父親のこともあまりそこまで興味を持ったことがない。

多くの人たちは、息子である私が彼の技術や世界を受け継ぐのだろうと普通に考えていたし、当たり前のような環境でもあったのだが、だいたいカメラにも昆虫にも興味なく、ましてや父親の世界なぞ、父親の世界であって私のものではないのだから、私が後を継いでも何の意味もない、とずーっと思っていた。それは今も変わっていない。


小、中、高と、剣道などのスポーツやクラブ活動ばかりやっていた自分にとって、親父が家で何をやっているのかなど、そこまで詳しくも知らなかったし、興味も普通の人とあまり変わらなかったのを覚えている。


しかし今、アーティストとなった自分が思い起こすと、そこには親父を含めた栗林家の不思議で可笑しな生活が浮かび上がってくるのである。


そもそも栗林家のルーツはどこにあるのだろう?

そう思い、母親に聞いてみたときがある。

残っている記録では、江戸時代までさかのぼるらしい。


当時、長崎は平戸周辺を治めていた松浦藩の藩士であったことが記録に残っている。松浦藩での身分は、松浦の殿様が、例えば細川藩へ向かうときに、先に早籠や馬に乗り、自分の殿様の到着時期を伝え、また帰るときには、また先に早馬に乗り、地元松浦城に戻り、お殿様の帰りの準備や掃除をさせたりする係りだったと聞く。


そのご先祖様に関して。

ここで面白い、というか、それは私ではないか? と思ってしまうような出来事、事態を招いた記録が残っているのだ。

これまた知る人は知っているが、私は無類のお酒好き、というより、一人家で晩酌はしないので、皆で飲む酒の席が大好きな人間である。

そしてその酒の席で、まぁ、いろいろな失態や問題を起こしたことも否定するつもりはない。反省だけなら栗林でもできる、と言われるのもうなずける(笑)。


まぁ、そんな私が自分を肯定する、というかこれはもう仕方ないな、代々受け継がれてきた血であり、家系であるという事件をこの江戸時代の栗林藩士は起こしているのである。


それは、いつものように松浦のお殿様がよそのお城を訪ねたときのことである。この時も早籠に乗り連絡係を務め、お殿様が無事着いたのを確認し、いつ松浦城に戻るかを伝えられた後に一足先に松浦への帰路へついた。

当時、熊本や福岡から松浦まで籠で帰るとなると、急げば一日、もしくは一泊二日、普通にいっても二泊三日もあれば十分にたどり着ける距離である。

うちのご先祖様は隣町の江迎という町まで来たときに、ここまでくればもう大丈夫、明日一番に着けば、なんの問題もないと、その町の宿に泊まりしこたま酒を飲んでしまったらしい。


たぶん、私の顔にちょんまげをつけたような、私にそっくりなご先祖だったんだと思う。私もそんなことは何回も経験しているからわかるのである。


その次の日、

飲み過ぎてしまった栗林藩士は寝坊して、


しまった!


とばかりに慌ててお城に戻るのである。

お殿様より早く帰り、城の連中にお殿様の帰りの日にちを伝え、準備をしなくてはいけないはずの栗林藩士、

みなさんもうご想像できると思うが、そのとおり、

記録では、お殿様が先にお城に着いてしまっていたのである。


なんか、似たようなことをした記憶がある私にとって、そのときの栗林さんの気持ち、焦り、やばい!!しまった!!という気持ち

よーくわかるな……

もちろん人生最大のピンチである(笑)。


うちのご先祖様はやってしまったのである。

粗相を、

お酒によって。


しかし不思議なことに、お家断絶、ということにはならず、養子縁組などを得て、栗林家は今まで(私まで)続いている。

これもまた、この藩士はそれこそ自分に似ていたのではないか?

と思わざるを得ない。

というのも、なんだろう、ラッキーというか、運が良いというか、まぁ、調子が良いのだと思うのだけども、そのおかげで、いままで起こした色々様々な出来事がたまたま許されてきた私としては、この栗林藩士も同じように、打ち首、お家断絶、ということを免れたのではないか? と思ってしまうからだ。


まぁ、あくまでも自分の想像であり、勝手な憶測ではあるが、そんな栗林家の末裔が私なのである。

皆さん、今までの粗相は許してもらいたい、家系です(笑)。


さて、またもや、思いっきり話がそれてしまった。

その末裔の一代前、そう、うちの親父の話である。

さらにそのもう一代前、うちのじーちゃんの話も豪快すぎて話し出したら終わらないが、とにかく今回は一代前の親父の話に物語を戻そう。

何十台もあるカメラ達は、ほとんど機能しない。全て、部品取りにされて何かが機能しないのだ(笑)。 全てが歴史の一部である

そう、私の父親は、昆虫写真家である。


みなさんは、自分の父親が昆虫写真家であったとしたら、それを想像できるだろうか。

どういう生活をして、またどのように生計を立てているのかとか、たぶん全く想像ができないと思う。


基本、飯の時以外何をしているのか、実は私もよく知らないのである。


社交的ではあるのだが、昼飯時など、ひとしきり世間話や下らない話をしたら、とっとと自分のスタジオにこもり、その後晩飯まで彼が何をしているのか、全くわからないのである。

こちらもそんな暇ではないので、詳しく知ろうとも思っていなかったのだが、のちに彼がスタジオで何をしていたのか? というのが、シンガポールの甥っ子を訪ねた時に、彼の部屋に転がっていた父親が書いた本の中で知ることになる。

毎日10年かけて、特殊なレンズを作ってたらしいのだ。


昆虫写真家なので、もちろん昆虫を探したり、撮影をしたりも当然するのだが、うちの父親の場合、その昆虫を撮影するカメラ自体を作ることにものすごい時間をかけている。

短気な私には、ちょっと理解できないのであるが、彼は常に10年くらいのスパンで作品や道具を作っているというのだ。


私の場合、ギリギリまで作品を作らず、追い詰められて追い詰められて、もうダメだ、というところで実力を発揮するタイプだと自覚しているので、10年をかけて一つの作品を作るなぞ、はっきり言って理解できず、その間に何があるかわからないのに、何考えてんだ? この人? と思ってしまうくらい全く違う世界、時間と空間を持っている人なのである。


しかし、そんな親父から学んだ時間の概念というか、虫との時間の面白い思い出がある。


当時中学2年生であった私は、一生懸命部活動に励む普通の少年であった。

なので当然のように、夏休みの宿題や課題は普通にこなさなくてはいけない。

いくつもある課題の中で、生物の宿題が何をしていいか分からず、親父にアイデアを相談したことがある。


すると、

「お前、ちょうどいいのがあるぞ。これやれ」

と言い渡された課題があった。


その名も、「鈴虫の24時間観測☆」。


そのままなのであるが、1匹の鈴虫を24時間観測するだけである。


これだけならば、なんだ、虫を1日中みるだけだろ? と思われるかもしれないが、そんなに生易しいものではない。

その時に私が渡されたものが、1日を1秒単位で区別されている何十枚もあるコピー用紙であった。

つまり、1匹の鈴虫が1秒毎に何をしたかを記録する記録用紙であったのである。


例えば、鈴虫が右中足をあげたら 右中上、左前足をあげたら左前上、と書き込み、歩いたら、何分何秒から何秒まで歩いたと横線を引き、触覚を掃除したらいつからいつまで何秒間掃除をした、右か左か? 全部書くのである。

すべての行動を記号化させ、それをただ秒単位で区切られたコピー用紙にすべて書き込むのである。

飯も持ってきてもらう。トイレには鈴虫の箱を持っていく、1日を12時間に分けて二日に分けて行ったので、確かに少しは楽であったが、1秒たりとも目を離せないこの地獄の夏休みの課題。

面白いのは、中学生2年のこの私が、鈴虫を24時間観察したために、今まで知られていなかったある行動を発見してしまうのである(笑)。

それが東京の昆虫学会で認められ、『インセクタリウム』という雑誌に載り、賞まで取ってしまうところまで行ってしまうのである。

カメラも全部自分で作ってしまうので、もちろんこんなものも全部自分で改造、作ってしまう。趣味は私と違う事は間違いないが、これはこれで本気度がヤバい

夏休み明けの授業で、「先生これ、自分の課題です」と提出した時に、生物の先生が言った言葉が、今でも忘れられない。


「栗林、一体これはなんだ??」

「いや、鈴虫の24時間観測です」

「……」


ほとんどコンセプチャルアートの世界である。


ちなみに、私が発見した鈴虫の行動とは、お尻を地面に押し付け、ずるずるマーキングをするかのような行動であった。

いまだになんのためにやっているのかは解明されていない(笑)。


昆虫写真家の家族はそんな感じである。


カマキリの卵の孵化を撮影するために、家族、交代交代で卵を見続け、ちょっとでも変化があろうものなら、親父のベッドの横についているブザーを鳴らし飛び起こさせる。

いつ孵化するかわからないから、学校も休まされる。


また、新種の昆虫を発見するために、バイトということで親父と昆虫博士と3人で一緒に山に入り、延々と葉っぱの裏をめくってまわり、

「これは!?」

と思って見つけて呼ぶと、

「あぁ、こいつね」

と言われ、

「300円」

と、珍しくもなんともないことを告げられ、

地味で、「なんじゃこれ?」くらいで気にも止めていなかった虫だったのだが、

一応伝えるだけ伝えてみようと教えたら、

二人ともかぶりつくように、

「これは!!」

とか言って、

「5000円!!」

と言われ、

「え?マジで!!?」

と驚いたり。


まぁ、そんな生活が私にとって普通なことであったのは確かである。


彼が何を思い、考え、私と接したり生きてきたかは私はよくわからない。

しかし、私が見てきた彼の生き方や、集中力、折れない心など、

多くのことは、

私の血になり肉となって今、脈々と受け継がれている。


そして、代々続く栗林家の繋がり。


それが自分を存在させ今を生きさせ、そして、やるべきことをやらなくてはならないことを十分理解させている。


「自分の信じた道を貫き通せ! 誰かが必ず見ていてくれる」


中学の頃に親父に言われた言葉だ。


今思うと、今の私と同じくらいの年だった親父が、自分に言い聞かせていた言葉だったのかもしれない。


有名になろうとか、お金持ちになろうとか、そんなことはどうでも良いのだ。

私は、私に繋がる代々の人たちの想いや存在に感謝し、目の前のことに誠心誠意をかけて生きていくことだけなのである。


今日もまた酔っ払って迷惑をかけていたら、申し訳ない。

しかし、そんな時いつも思う。


自分は過去とも未来とも繋がっているのだと。

都合良すぎだな(笑)。



(次回は8月11日に掲載する予定です)




くりばやし・たかし

1968年生まれ、長崎県出身。武蔵野美術大学卒、ドイツ・クンストアカデミーデュッセルドルフ修了(マイスターシューラー)。2006年シンガポール・ビエンナーレ参加、10年森美術館「ネイチャーセンス」展、12年十和田市現代美術館で個展。現在、インドネシア・ジョグジャカルタのARK Galerieにて個展を開催中。インドネシア在住。 takashi kuribayashi

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