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旅とミニクーパー 

TRIP MUSEUM 更新日: 公開日:
フランスからドーバー海峡を越えてイギリスへ。突然右側通行から左側通行へ変わり、慌ててしまう

トリップミュージアム。早くも今回で4回目である。素人の自分が、文章を書くことは恥ずかしいが、書く気持ち良さも理解しだした今日この頃。今回は、旅のパートナーの話をしよう。

誰にでも、趣味なり好みなり、常に自分と共にいる人や家族、道具や生き物など、自分の人生と切っても切れない関係の物があるだろう。今、自分の歩んできた道を振り返ると、私にとって何時もではないが、しかし常に一緒に旅してきたパートナーがいた。ミニである。

イギリスで誕生したこの小さな車は、第二次中東戦争によるガソリン価格高騰の影響で、世界中が車の小型化、エコ化(その当時エコという言葉はないが)を必要とした時代背景で生まれた。イギリスは車の小型化でドイツやフランス車に遅れを取り、非常に苦しい状況に立たされていた。

そこで白羽の矢が立ったのが、当時イギリスを代表する自動車会社だったBMC社で、レースなどの経験から独自のパーツや技術を研究していた、アレック イシゴニスというエンジニアが開発にあたった。後に、サー アレック イシゴニスの称号を受けるこの決して若くない技術者が、すでに存在する技術と部品、パーツを利用し、アイデアのみでつくり上げた車が、ミニ、という車なのである。

ちなみに普通に皆さんが言う、「ミニクーパー」というものは、実は、「ミニ」という車を、クーパーおじさんが改造したもののことをいう。ジョン クーパーという人は、1950年代にF1にエンジンを提供しており、多くのイギリス人ドライバーが彼の作ったエンジンを載っけたレーシングカーでレースに参戦している。そのジョン クーパーおじさんが、イシゴニスが作ったミニを非常に気に入り、彼と共にスペシャル仕様を作ったのが、ミニ クーパーなのである。つまり、ミニ、という車と、ミニクーパーという車は、外観はほぼ同じように見えて、ノーマル仕様とレーシング仕様の違いがある。
事実、60年代に、モンテカルロラリーにて、ポルシェやランチャなど、名だたる車たちを抑えて数度の優勝をしている。


話がまたズレだしているが、
このミニ、ミニクーパーという車が、20歳くらいからの自分の人生に多くの思い出と記憶を残してくれているのだ。

ちなみに今現在、私はミニクーパーに乗っている(笑)。92年の最終型、キャブレーター仕様の1300ccミニクーパーである。

そしてこのミニは、なんと、私にとって7台目のミニでもある。

今、つきあっているミニクーパー1300cc。ツインキャブレーターでパワーは最高。しかし遠出は……

最初のミニは、日本の学生時代。バイクで生活をしていた自分が、信号無視した営業車に跳ねられ右腕の自由を奪われた代償に受け取った保険金で購入したミニである。

当時、私はミニなどにまったく興味を持っておらず、ただの見た目が可愛い小さな車という存在でしかなかった。仲良い友人がミニに興味を持ち、試乗について来てくれないか、という、まぁ、よくあるパターンで車を見に行った結果、ミイラ取りがミイラになりミニとの歴史が始まるのである。

私が試乗させてもらったミニの中に、レースの為に仕上げていたステージ1のチューニングを施した、モーリスミニクーパーS マーク1という車があった。このミニクーパーは、正真正銘、本物のサラブレッドで、キャブレーターの吸気音、ガソリンの匂いが充満する室内、そして恐ろしい加速とハンドリングを要する1960年代のレースシーンを転戦してきた一台だったのである。

青天の霹靂とはまさにこのことで、ミニという車のイメージを180度ひっくり返し、そして自分とミニとの歴史を作る最初の事件であった。

それなりに色々な車に乗せてもらったりしてきたのだが、このゴーカートのような低い視点、古びた内装やトラックのようなハンドルにそぐわない、後ろ頭を殴りつけられるような加速(実際はそんなに早くない〈笑〉)。一発でこの車の虜になるのである。

ネットがない時代、その後いろんな雑誌を読み漁り、大体の知識を習得したころ、タイミングよく、というと語弊はあるが、例の事故に巻き込まれ待望のミニを手に入れることとなるのである。

私が最初に手にしたミニは、91年式の1300ccミニクーパー。復活したキャブレーター仕様の、レーシンググリーンに白のストライプが入った新車のミニであった。

このミニとは、日本の色々な場所に旅をした。
最初の慣らし運転のための800キロは、長崎の実家に向かう旅にした。当時、晴海埠頭から宮崎の日向までフェリーが出ていて、宮崎から長崎まで、ドキドキワクワクしながら九州を縦断した。

卒業後にドイツ行きの資金を調達する為、
泣く泣く友人にこのミニクーパーを譲り渡し、
アウトバーンの国、ドイツにて、最初に購入した車が1000ccのスタンダード ミニだった。

当時まだユーロはなく、1000ドイツマルクで購入したこのミニは、私のミニ人生でも多くの想い出を共有している。

ミニよりも大きな立体作品を屋根の上に縛り付け、制限速度がないアウトバーンという高速道路を、他の車に笑われながら、70キロぐらいのスピードで走り続けるなどは、日常茶飯事であった。

オランダ、ベルギー、フランス、イギリス、スペイン、イタリア、スイスにオーストリアを1カ月以上かけて旅したのもこのミニである。

美術館や多くの観光地を訪れ、宿がないときはミニに泊まり、中古車屋や解体屋を訪れ、その度に部品やパーツをつけ替えながら旅したのを覚えている。イタリアの片田舎の解体屋で見つけた、イノチェンティー ミニのフロントグリルは、パリで購入したサンダルと物々交換した(笑)。

モナコのF1コースをぐるりと回り、カジノで勝ったら宿に泊まると意気込んだものの、敢え無く敗退。そのまま駐車場に止めた車の中で寝ていたら、朝に観光客に取り囲まれ、写真を撮りまくられたこともある。

ネットや携帯がない時代である。田舎町でパンクをし、誰もいない場所に半日以上い続けたときもあった。あのときの夕日や、まったくお互い言葉は理解できないにもかかわらず、最後は晩飯と宿を提供してくれた老夫婦。あのイカつい車屋のおにーちゃんも、最後は笑顔で俺らを見送ってくれた。

旅の途中、南フランス、ニースで知り合った女性と恋に落ち、その後毎月ドイツから片道1500キロの道のりを通い続けたのも、この1000ccのミニとであった。国境のパスポートコントロールで、お前また来たのか? と呆れられ、濃いブルーのミニに乗るアジア人を、毎回笑いながら通してくれたあの気さくなおじさん達は、今は何をしているのだろう。

多いときは一度に3台のミニを所有し、生活用、イジり用、部品取り用と、毎日ミニしか触っていなかったときもあるくらいだ。このままではダメだ! とすべてのミニを手放し、750ccのフィアット パンダに乗り換えたときもあったが、やはり無理である(笑)。

生活や旅の中にミニがあった。

今、私は、6月から開催される北アルプス国際芸術祭の作品制作のために、長野は、大町に来ている。

もちろん愛車のミニクーパーと一緒である。

7台目のこのミニは早くも多くの想い出と喜びを私に与えてくれている。

旅のパートナー。

私はこれからどんな体験をこのブルーグレーのミニとしていくのだろう。

このミニとの歴史は始まったばかりである。