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「1984」と「リキッド・モダニティ」(後編)

社会学者ジグムント・バウマンの問うたこと(下)




前稿では、バウマンの議論が現代の「トランプ現象」(や「1984現象」)を読み解く上で十分示唆に富むことを見た。それを踏まえて「リキッド・モダニティ」論をより一般的な形で検討することにしよう。それには、死んでいるのに生き返るゾンビの両義性に留意することが有益だろう。バウマンはゾンビ的なものを単に死んだものと片付けている訳ではない。重要なのは、それでもゾンビが現代に蘇る背景をどう考えるかなのだ。(亜細亜大学講師〈現代社会理論〉 長谷川啓介)




往年のジグムント・バウマン(ロイター)



3. 「リキッド・モダニティ」と向き合う

確かに「リキッド・モダニティ」論は、それ以前の「ソリッド・モダニティ」とは異なる新しい時代が到来したと主張するものである。公による私的自由の抑圧という全体主義的傾向がもたらした大きな災禍を鑑みれば、新しい時代の到来は言祝(ことほ)ぐべきことだろう。しかし、他方で「もはやそんな時代ではない」と言うことは、根本的な問題のない世界に辿り着いたかのようにわれわれを錯覚させかねない(「歴史の終焉」や「脱近代」が喧伝されたことを思い出してもいいだろう)。だとすれば、この世界に問題があるとしても、せいぜい古い時代の残滓であり、時代の趨勢に乗って私的自由を更に擁護すれば解消されるはずだという話になる。いわゆる「新自由主義」とはそういう形で進行したものと言えるだろう(その反動で、現代に問題を見つけると何でもかんでも「新自由主義」のせいにするという混乱も見受けられるのだが…)。


だが、われわれは本当に、自由で麗しい新世界に辿り着いたのだろうか。むしろ「新しい時代」は、かつての全体主義的傾向とは質的に異なるが、この時代に固有の重大な問題を新たに抱え込んでしまっているのではないか。にもかかわらず、その問題を明確にし、取り組むことがうまくできないとしたらどうだろう。ここにこそゾンビが蘇生する背景があるのではないか。


ゾンビを単に時代錯誤と片付ける時、その蘇生の意味が見過ごされる危険がある。ゾンビは、現代固有の問題があるのにそれが適切に表現されないことを(あるいは「リベラル」が適切に掌握できないことを)不器用な形で示しているのではないか。他方、その問題が旧来の言葉で不器用に表現され続けること自体も問題であろう。やはりゾンビはしっかりと成仏させねばならない。


そのためには、単に前の時代を否定するだけでなく、現代という新しい時代をそれ固有の性質と問題の内実に即して表現できなければならない。その時初めて、われわれは自ら作り出している時代・世界と真正面から向き合えるはずだ。その作業にみなが手をこまねいている中、バウマンは一連の「リキッド・モダニティ」論を鮮やかに差し出してみせた。ここにこそ、彼が現代世界を代表する社会学者である理由を見るべきであろう。

91年の生涯でバウマンは数多くの著書を残した



4. 新しいディストピア

2017年に『1984』が呼び出される現象は、「トランプ現象」への対応として一応理解できる。だが現代を全体主義的なディストピアとみなすのには無理があろう。しかし、そのことは現代がディストピアではないことを意味しない。実際、現代を描き出すバウマンの論考を読んでいくと、自由なのに出口のない悪循環の中に囚われているような奇妙な閉塞感を抱くことがある。とすれば、むしろ一連の「リキッド・モダニティ」論を現代的なディストピアを描いたものと解釈することもできるのではないか。


バウマンは「リキッド・モダニティ」の内実を明らかにすべく、その中心的問題を(公による私の抑圧というより)「権利上の個人が事実上の個人になること」と定式化している。次のようなことだ。現代、誰もが自らの人生を自由に営む「権利」を持つと広く認められつつある(まだ不十分な点はあるにせよ)。しかし、その権利も実際に行使できなければ「事実上」絵に描いた餅に過ぎない。例えば、不安定な就労を掛け持ちしながら介護や子育てに追われる生活をしている人、国を追われ難民生活をしている人はどうだろうか。資源の配分や社会基盤が不備な状況で、一部の特権層以外、個人が己の才覚だけでどうにかできる範囲は限られている。社会的な不備は、みんなの(公共的)問題としてみんなで(公共的に)取り組まねばならないはずである。


だが、社会的な不備はそのように問題に取り組むことをも難しくする。不安定で不確実な状況にさらされた人々は、各自まず目先の状況をサバイブしなければならない。限られたゆとりの中、なんとか力を結集してもせいぜい一時的で、なかなか問題の根っこには届かない。かといって問題を単純化して目につく標的を槍玉に挙げるようなやり方では、かえって事態はこじれていく。むしろ抜け駆けしてでも、自分だけ助かろうとするほうが合理的にも見える。各自が自由に生きる「個人化」とは結局は格差の拡大ではないのか。何重もの悪循環の中で、みんなが個人としての権利を自律的に行使できる社会環境が整備される見込みなどは、「事実上」むしろ小さくなっていくのではないか。


そんな途方に暮れるような状況で生じうる様々な「生活戦略」をあぶり出していくのが、バウマンの晩年の仕事の重要な部分を占めている。例えば、われわれは、私的な消費生活に楽しみを見出すことや失われたコミュニティーを求めてさまようことで、現実をやり過ごそうとしていく(そうした「需要」に目敏く応じ、掘り起こすサービスは早晩供給される)。先に触れた、私的俗情に淫することや身の安全にばかり気を取られることも含め、どれもが「理解」できる戦略ではあるが、「出口」にはならない。孤独で不安な生活基盤は結局そのまま残される。そんな、永遠に不確実性と格差に怯えることを自由だと思い込むディストピアの中にわれわれは生きているのではないか。


思えば『1984』が書けること自体、現実は完全なディストピアではなかったことを示している。全体主義が現実化すれば、その世界をディストピアとして描く小説は禁じられただろう。2017年の現状は、そのような全体主義的ディストピアとは程遠いように見える。『1984』を読み直す自由はもとより、誰もが「本音」を自由に言えるようですらある。


だが、ディストピアとは現状に対し疑問を抱くことを禁じる体制だとすれば、われわれが現代社会に固有の問題とうまく向き合えないことは、やはり一つのディストピアなのではないか。過去の全体主義的傾向を批判することで、現代にはまるで根本的な問題がないかのようにみなしたり(「新自由主義」)、現代の問題に駆り立てられながらも思いつきで時代錯誤的にしか表現できなかったり(「トランプ現象」、「1984現象」)、何でも言えるようでいて、みんなの問題にみんなで取り組むという問題はなかなかうまく提起できなかったりする現状を前にすると、バウマンがしばしばある思想家の言葉を引用して言うように、「われわれの社会は、自らを問うのを忘れてしまった」ように見える。


だとすれば、われわれの社会は、『1984』のように「ビッグブラザー」に強いられてディストピアに向かっているのではなく、自ら進んで「リキッド・モダンな」ディストピアに向かっているのではないか。そのことこそ、バウマンが最晩年まで問い続けたことだと思う。

(次ページへ続く)

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