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戦後・台湾の生きた歴史に迫る~『牯嶺街少年殺人事件』

© 1991Kailidoscope



シネマニア・リポート Cinemania Report [#38] 藤えりか




中台分断から60年以上、自らを中国と切り離した「台湾人」だと強く意識する世代が増える台湾。1960年代初めの台湾が舞台の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(英題:A Brighter Summer Day)(1991年)を見ると、その淵源を垣間見る思いがする。4Kデジタル修復版が日本で11日に公開されたのを機にプロデューサー余爲彦(ユー・ウェイエン)(65)と来日した、主演の張震(チャン・チェン)(40)にインタビューした。

インタビューに臨むチャン・チェン=仙波理撮影

『牯嶺街少年殺人事件』の舞台は1960~61年の台北。第2次大戦後、中国の共産党との内戦に敗れて国民党政権とともに大陸から渡った「外省人」と、戦前から住む「本省人」との対立が深まっていた。大人たちの不穏な空気や不安を若者たちも感じ取り、徒党を組んで争った。若きチャン・チェン演じる建国高校夜間部の小四(シャオスー)は、そうした不良グループの一つ「小公園」に属する気のいい級友、小猫王(リトル・プレスリー)と親しくなる。「小公園」リーダーのハニーの彼女、小明(シャオミン)(楊靜怡)に恋心を抱くシャオスー。一方、ハニーはシャオミンをめぐって対立グループ「217」のリーダーを殺害した後、台南に身を隠していたが、戻ってくるや対立が再燃、グループと微妙に距離を置いてきたシャオスーも巻き込まれてゆく。

© 1991Kailidoscope

2007年に59歳で惜しまれつつ亡くなった故・楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の遺作のひとつ。ヤン監督がシャオスーと同じくらいの年だった1960年代に、台北で実際に起きた殺人事件に想を得て作られた。台湾の映画祭「金馬奨」で作品賞を受賞、フランスのナント三大陸映画祭でも監督賞に輝き、マーティン・スコセッシ監督(74)も称賛。ヤン監督の死去とも相まって、「伝説の傑作」として語り継がれてきた。スコセッシ監督が創設した、往年の名作を修復・保全する米NPO「フィルム・ファウンデーション」が米クライテリオン・コレクション社と共同でデジタル版修復に取り組み、台湾と日本で公開された。


3時間56分の長尺。登場人物の相関図は複雑で、それぞれのセリフや行動の端々には言外の不安やフラストレーションがにじむ。だからこそ当時の台湾、とりわけ外省人と本省人の関係性や歩んだ歴史を重ねて見ると、より理解しやすくなるだろう。


シャオスーら登場する少年少女たちの大半は、外省人の家庭育ちという設定。シャオスーの父(張國柱、チャン・クオチュー)は公務員、シャオスーの友人・小馬(シャオマー)の父は裕福な司令官だ。人口比では圧倒的に少数派ながら、行政・軍事の支配層のほとんどを外省人が占めていた当時を反映している。シャオスーやシャオマーたちの一家は、敗戦を機に引き揚げた日本の軍人らが残した日本家屋に住み、家の中で日本刀などを発見したりする。


© 1991Kailidoscope

シャオスーの父はある時、警備総部に連行され、大陸の中国共産党との関係を疑われて厳しい取り調べを受け、公務員の職を続けづらくなる。本省人が経営する地元商店への転職も考えざるを得なくなり、精神的に不安定になるが、妻(金燕玲)は「あなたに覚悟があれば私は大丈夫」と諭す。


「小公園」リーダーのハニーも劇中、台北で居場所をなくしたと感じて「(本省人が多い)台南へ戻る。外省人とは居たくない。俺の台湾語も上達したよ」と言う場面がある。


© 1991Kailidoscope


1960年は、当時の米大統領アイゼンハワーが初めて訪台に踏み切った年。多くの外省人が、郷愁を抱いてきた大陸への帰還などもはやかなわないと悟り、本省人同様に台湾人として本格的に生きるよう自覚していった時期とも言われる。シャオスーの父やハニーがそれぞれ迫られた「覚悟」や挫折感に、そうした時代背景が透けて見える。


主演チャン・チェンとともに東京で舞台あいさつに立ったプロデューサーのユー・ウェイエンは、こう解説した。「僕の両親は外省人の第1世代で、シャオスーの両親もまさにそこに位置する。初めて暮らす土地への不安や、生き抜くための困難を抱えた彼らにとって、不幸な時代だったと言える。作品の軸となるのは殺人事件だが、背後にあるのはそうした時代の記憶。そんな台湾を表したいというのがヤン監督の狙いだったと思う」


東京で舞台あいさつしたプロデューサーのユー・ウェイエン(左)とチャン・チェン(中央)。『黒衣の刺客』でチェンと共演した妻夫木聡(右)も公開を祝して登壇=藤えりか撮影

公開当時、チェンは14歳。演技経験がまだほぼなかったなか、休学して約8カ月の撮影に臨んだ。「ヤン監督は脚本を誰にも変えさせないという点で厳しかったし、各場面で何をしなければいけないかについては僕もわかっていた。でも脚本を理解するのは、当時の僕には非常に難しかった。ここで人が来てぶつかってケンカする、といった流れはわかっても、実は背景にこんな気持ちがあった、ということまで僕はわかっていなかった」。チェンは個別インタビューでそう振り返った。


シャオスーの父を演じたチャン・クオチュー(68)は、チェンの実の父でもある。しかも、中国・浙江省余姚市出身の外省人だ。つまりチェン自身も外省人の家庭で育った。シャオスーやその一家に共感するところがあるだろうか。そう聞くと、チェンは答えた。「社会の雰囲気や背景があまりにも違いすぎる。シャオスーの一家が抱えたあれだけのストレスは、僕の時代にはなかった。当時についての資料や本を読んでも、また公開から25年あまり経った今改めてこの映画を見ても、あの時代を生きたわけではない僕が当時を本当に理解できているかは疑問だ」。それぐらい、台湾社会が戦後、激しく変化してきたということだろう。



だが、シャオスーがシャオミンにまっすぐ恋い焦がれた気持ちは「今、とてもよくわかる」とチェンは言う。シャオスーは劇中、シャオミンに「私を変えたいのね? (でも)この社会と同じ。変わらないのよ」と反論される。閉塞感に満ちた当時の台湾社会を映し出したかのようなセリフだ。そうしたシャオミンの気持ちも「今は理解し、受け入れることができる」とチェンは話した。


デジタル修復版は台湾でも公開され、劇場では拍手が起きたという。若者を中心に台湾人意識が高まり、外省人と本省人の区別やあつれきが薄れゆくなか、なおも今作が受け入れられているのはなぜだろう。そう聞くと、チェンは言った。「この作品の狙いについて、ヤン監督は明快だった。だから、社会の意識が変わったからまったくわからない、といったことにならないのだと思う。ヤン監督の作品は、人物設定がはっきりしている。それぞれが何を欲して生きているか、すごくはっきりわかる映画なのだと僕は思う」

インタビューに臨むチャン・チェン=仙波理撮影

米国留学経験のあるヤン監督が、オリジナル版公開直前の1991年6月付で英語でしたためたディレクターズ・ノートが残っている。「この作品は、大陸あるいは台湾の人たちがあまりにおびえ、または当局発表による歴史にあまりに従わせられたりしてきたがために、記憶にとどめようという関心が薄れてしまった時代の物語だ。何があったのか意図的に忘れ去ろうとすることで、私たちの心に大きな空白が生まれている。そうして誤解や誤った解釈に陥り、当局にたやすく悪用されたり操られたりする。今作は、そうした状況下の人間の尊厳や自尊心について語っている」


戦後まもない47年に上海に生まれ、中台分断の49年に2歳で両親と台湾へ移り住んだ外省人として、生きた歴史の実像を描きたかったヤン監督の思いが伝わってくる。


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藤えりか(とう・えりか)

1970年生まれ。経済部や国際報道部などを経て2011~14年にロサンゼルス支局長、ラテンアメリカを含む大統領選から事件にIT、映画界まで取材。映画好きが高じて脚本を学んだことも。現在GLOBE記者。ツイッターは@erika_asahi



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